時間あたりの費用対効果

現代の若者の生活環境には、画像検索を中心にリアルな「今」の情報が溢れており、常に「見る・見せる・見られる」といった関係性の中で、「積極的なおしゃれ」から「ある程度はおしゃれ」へとシフトしている。こういった“手軽さ”や“簡素化”といったいわゆるコストパフォーマンス(以下コスパ)を重要視する傾向はファッション業界に限定されたものでなく、衣食住どのジャンルでも顕著だ。

 これは確かにそのとおりだと思うけど、一つ大きく欠けている要素がある。
それは「話題性」だ。
洋服でも履物で果物でもなんでもいい。消費するありとあらゆるものについて回る「話題性」「ネタ度」といった、俗に言う「インスタ映え」して「SNSでいいね」をもらいやすい「共通体験」を産む消費財であるかどうかという視点である。

果物は、野菜と異なり嗜好品の扱いを受けることも多く、その機能性や健康増進への評価、信憑性の薄さがある上に価格も安くはなく日持ちもしない。

 コスパの良し悪しを計る上で今までは「機能性」「健康」というような評価軸しか無かったので、食べれば健康になるということパフォーマンスに対してどのぐらいのコストをかけられるか、ということだけ考えていればよかったわけだが、今は違う。「インスタ映え」して「SNSでいいね」をいかに貰って「共通体験」をするかが大事なのである。

学生時代からコンビニを多用する生活を続け“手軽さ”に囲まれて育った世代は特にコスパに弱い。

 コスパだけ考えたら、コンビニより安く物が買えるスーパーのほうがコスパが良いはずである。しかし、実際はそうならずコンビニのほうが多用されている。つまり、金銭的・経済的負担をコストと考えるのは間違いだということになる。流動性が高い情報化社会の只中で若者なりに常に気を張って生活している。選択肢が莫大に増えるなか、周囲の流れに置いていかれまいと右へ左へと能動的に動く中で時間的・金銭的余裕も削られている。果物摂取量が年代に比例する理由はやはり「余裕」の違いなのだろうか。

 「余裕」が金銭的・経済的なものではない。もちろん全く無関係というわけではないが、スマホを2年毎にホイホイと買い換える経済力やスマホアプリに課金するだけの経済力はあるのだ。よって「果物摂取量が年代に比例する理由」は金銭的・経済的なものではない。
では、何が原因なのか。それは俗に言う「インスタ映え」して「SNSでいいね」をもらって「共通体験」しやすい消費財かどうかということだ。
流動性が高い情報化社会の只中で若者なりに常に気を張って生活している」ので、情報の鮮度が何よりも大事である。流れる情報の「消費期限」が年代に比例して長くなっていくのだ。20代なら24時間、30代なら48時間、40代なら72時間、と言った具合だ。
これ以上時間が経つと情報が古くなってしまい「インスタ映え」して「SNSでいいね」をもらって「共通体験」できなくなってしまうのだ。

どんなに良いものを買っても24時間で腐る。どんなに高いものを買っても24時間で腐ってしまう。もしそんな消費財があったら積極的に買うだろうか。どうせ24時間で腐っちゃうんだからと考えて、お手軽なものや、そこそこのもので済ませようとするだろう。

昭和世代が思い描く「若者が欲しがるはず」の高級車やブランド物の洋服に見向きもしないはそういうことだ。
ではなぜ果物を買わないのか。それは「インスタ映え」せず「SNSでいいね」をもらいにくいからだ。

どこでも売っている果物でありながら、産地や店によって味が大きく変わる果物は「美味しかった」という共通体験を得にくいのだ。これは果物に限った話ではない。スーパーで売ってる生鮮食料品は総じて共通体験が得にくい。

それに対してコンビニで売っているものはある程度統一された品質であることから「セブンイレブンの」「ローソンの」というような枕詞をつけることで共通体験が得やすいのだ。

だから「セブンイレブンのハンバーグが美味しい」とか「ローソンのケーキが美味しい」という会話が「インスタ映え」して「SNSでいいね」をもらって「共通体験」しやすい商品ということになる。
逆に言えば、スーパーやコンビニに依存しないほど統一された品質のものを全国津々浦々に提供できるナショナルブランドの商品は「インスタ映え」して「SNSでいいね」をもらって「共通体験」しやすいということになる。ビールやカップラーメン、スナック菓子などがそうだ。

お金と時間の貧困化によって、若者がコスパを重要視せざるを得ない、という現状が若者を果物から離れさせる一つの要因かもしれない

若者は忙しい。昔よりも時間がますます貴重になっている時代。情報の鮮度が話題性の鍵を握り、コミュニケーションの肝になる時代。
話題のものをいち早く捉える力が必要になってくるし、更に上を目指す人は自分が情報の発信拠点になりたいと思う若者も少なくないだろう。
若者にとってのコスパとは、モノが持つ機能や効能ではなく、限られた短い時間でいかにたくさんの話題を提供できる能力を持っているかどうかがコスパの良し悪しの基準なのだ。

雑誌が売れない、だから付録で釣る。
音楽CDが売れない、だからおまけで釣る。
テレビがつまらない、だから録画してCMを飛ばしたり早回しで見る。
限られた短い時間でいかにたくさんの話題を知り、保持できるかどうかが大事だからこそ、こういう行動に出るのだ。つまり、モノが持つ情報を増やしたり、知るための時間を減らすことでコスパを上げるのだ。
逆に、昔のように車を買って1年中車の話をしたり、ブランド物のバッグを買って1ヶ月間ずっとブランドの話なんてしない。情報の消費期限が極端に短い現代、大金をはたいて大きな買い物をすることは最もコスパの悪い消費行動なのだ。
つまり、昔はコスパ=コストパフォーマンス=パフォーマンス/コスト=費用対効果だったのが、今はコスパ=パフォーマンス/コスト/時間=時間あたりの費用対効果という概念に変わってきたということなのだ。
だから、耐久消費財が売れなくなり、リースやレンタル、シェアでいいや、ということになっていくし、季節ごとのファッションですら時間が長すぎてパフォーマンスが落ちるということなのだ。

「人のがんばり」に落ち着くのは、前例主義で効率化による変化を受け入れたくないから

「そういう方法をとることもあるんですが、書留の数が多い場合は印字スペースの関係で受領書がかなり長くなってしまうんです。だから、こちらの用紙にご自身で書いてもらうということで、窓口業務の時間短縮にご協力いただいているんですよ」

 これは読みようによっては「我々は困らないんだけど、受領書が長くなるとお客様が困る。だからそのかわりにお客様自身に書いてもらうことで納得してもらっている」とも読める。

ごく当たり前のように「受領書がレシートみたいに長くなったら、お客さまにご不便をかけてしまう」とあえて電子機器を使わない。

 だからこういう解釈がなされるのは当然の結果だろう。レシートみたいな長い受領書は受け入れられないからなのだ。レシートが領収書の代わりになると言われ続けて何十年。未だに手書きの領収書じゃないとダメっていう会社はたくさんあるのと同じことだろう。
つまり、諸悪の根源はサービス提供側ではなく、サービスを受け取る側のお客様の都合なのだ。

例えば、「30分後にお届けします」というメールを見て慌てて時間変更をしても現在は対応できないが、この第8次システムが導入されれば、リアルタイムで対応ができるという。

 おそらくこのシステムが稼働しても再配達は大きくは減らないだろう。なぜなら「30分後にお届けします」というメールを見ても多くのお客様は時間変更なんてしないからだ。もっとも、個人への配送は「運送屋さんに申し訳ない」という気持ちが働いて時間変更するかもしれないが。

「人のがんばり」を信じてなにが悪い、みんなで力を合わせればどんな逆境も克服できるはずだ、と思う方もいるかもしれない。しかし、大きな変化を前にして自分たちの発想を変えることなく、「人のがんばり」で乗り越えようとしても、残念な結果しか生まないということは歴史が証明している。

 よく言うところの「大和魂があれば竹槍でB29を撃墜する事ができる」を未だにやってるということなのだ。日本人の悪い癖は未だ健在、と言ったところか。いやむしろ郵便や宅配便のような物流に限って言えば、日本軍は兵站を軽視した、考えるのが下手とも言われるが、そのくせもいまだ治らず、と言ったところなのかもしれない。

まずは「ヤマトの荷物を佐川のドライバーが運んでもいい」という新しい考え方を受け入れる必要があるのだ。

 そういう意味では、これは正解ではないと思う。
サービス提供側がいかに工夫をしても消費者が受け入れなければその工夫は使えない。それは冒頭の郵便局でのやり取りにすでに現れている。
「ヤマトが運んでくるはずの荷物がなぜ佐川で来るのか?」と荷受人からクレームを付けられるのがオチである。共同配送のような仕組みができれば今度は荷受人から「運送会社指名サービス」というようなサービスが欲しいと言われてしまうのだ。すでに通信販売などではこのシステムを採用している所が少なくないのは、実際にそういう声があるからなのだと思われる。
必要なことは効率化をすすめるには消費者側も変わるのが当然である、という文化を長い時間かけて醸成していくことなのだ。
ヤマトなら「30分後にお届けします」というメールを送った上で、さおだけ屋や焼き芋屋、廃品回収のように「お近くに立ち寄った時に手を上げて呼び止めて下さい」もしくは「受取スタンバイOKですというメールを送り返す」というような荷受人の意識を変えさせるようなサービスに変化させ、それを納得してもらう努力をすることがサービス提供側に必要な「効率化」だと思う。

学校が成すべきことは「道具は使い方によっては危険なものである」ということを学ばせることだ。

bylines.news.yahoo.co.jp

こういう話になるとすぐに、安全管理がー、責任者は誰だー、っていう話になるのはなぜなんだろうか。

本来、道具というものは使い方を誤れば危険なものである。そこを無視して絶対安全、100%ノーリスク、と言うものを追求しようとするから「サッカーを禁止しろ」「ゴールを固定して動かなくしろ」っていう極論ばかりが通るようになる。
どうせゴールを地面に固定したって、子どもたちは隙を見て外そうとするだろうし、年月が経って錆びたり腐ったりすれば意図せず外れて怪我をする人が出てくる。そうすれば安全管理がー、責任者は誰だー、って騒ぐはずだ。絶対に100%ノーリスクにはならない。こういう輩はどんな事例であろうとも怪我をしたら誰かのせいにする。公園の遊具がどんどん撤去されていった経緯をわかっているのだろうか。それとも、公園には一切の遊具も設置せず、ボールも自転車もペットも持ち込むことを禁止し、子どもたちが自由に駆け回ることを禁止することが公園のあるべき姿だと思っているのだろうか。

どうせ学校特有の事情があるというのなら、子どもたちには「道具は使い方によっては危険なものである」ということを学ばせるべきであり、正しい道具の使い方、こうすると危険だ、ということを教えるべきなのだ。元来、子供の遊びというものは危険であればあるほど楽しく面白いものだ。それを幼いうちから肌で感じ、体で覚えていって大人になり、危険なことから子供やお年寄りを守ることが出来る存在になる。そこをサボって危険なことから遠ざけることが正しい教育なのだろうか。100%ノーリスクなことを求めることが教育なのか?一人のけが人も出さずにつづがなく卒業させることが教育なのか?

文句を言う親側も同じだ。自分にできもしないことを教師や学校に押し付けて偉そうなことを言っては居ないだろうか。あぶないと思うなら、サッカーを禁止するのと同様に、子供を学校に預けるのを禁止すべきだ。学校に預ける以上、ゴールで怪我をするリスクはゼロにはならない。
この手の議論は東日本大震災で発生した原発事故における原子力発電所や、無差別通り魔殺人における包丁やナイフと同じことを形を変えて騒いでいるのと同じだ。100%の絶対安全を求める方は楽だし絶対正義の立場に立てるので文句だけ言いやすい。対策をする側は100%の安全に限りなく近づけることは出来ても絶対安全にはならないのだから、どこまでも文句を言い続けることが出来る。そんなことをいちいち聞いていたら何もできなくなる。

「経費」という名の「他人のお金」を使って“似非”個人消費を増やそう。

www.huffingtonpost.jp
賃上げをすれば所得が増えるから個人消費が伸びる、という理屈だったはずなのに、現実はそうはならなかった。
だから、

子育て世帯の教育費負担や、消費者の節約志向などを一例に挙げ、「これらの点に何ら手をつけないままでは、経済界が賃金引上げに取り組んでも消費は拡大しない。こうした課題に官民あげて取り組むことが必要」

というコメントが出たんだろうけど、見逃しているポイントがもう一つあると思う。それは企業が使う「必要経費」だ。
わかりやすいところが「接待費」「出張費」「宿泊費」だろう。
かつては結構な額が接待費として認められたり、充分な額の出張費や宿泊費が支給されていた。しかし今は接待費はぎゅうぎゅうに絞られ、出張費や宿泊費は実費のみという企業が多くなっている。つまり、常日頃から「無駄を省け」「余計なコストはびた一文払わない」という会社環境で仕事をしている人が多いということだ。下手すると「経営者目線で仕事しろ」なんて馬鹿げた話がまかり通る会社もある。
そういう会社で働いている従業員が、自分の家の家計がちょっとばかり賃金アップしたからといってホイホイ消費を増やすだろうか。どうせ賃金アップなんて一時的なものだ、将来また厳しくなれば真っ先に賃金抑制したり、首切りをするはずだ、と思っている従業員が大半であろう。つまり、賃上げしてもそう簡単には消費アップにつながらないのだ。
だったらどうすればよいか。
企業の経費で“疑似”個人消費を増やせばいいのだ。
まずは接待費を大幅に緩和し、週に一回ぐらいは会社のお金で飲み食いできるようにする。もちろん全員ではないけど、営業職ならそういうお金の使い方をして販路の拡大やお得意さんを楽しませればいい。必然的に接待を受ける人も増え、お礼に逆接待をしたり、会社のお金でしか行ったことのない店に個人で行く人も出てくるかもしれない。
次に、出張費や宿泊費を昔のようにゆとりある定額制にする。長期移動する人や長期派遣でホテル暮らしのような出張続きの人は給料に手を付けることなく生活が出来るぐらいでよい。程よい事実上の“あぶく銭”になるし、給料に手を付けるわけではないのでお金を使うことに対するハードルが下がり安心して使うことが出来る。
自分の懐から出ていくお金だと思うから企業は賃金を抑制し経費を削減する。
自分の懐から出ていくお金だと思うから個人は消費を抑制し無駄を削減する。
でも、使って良いお金が「他人のお金」で自分の懐が痛まないお金だったらどうだろうか。きっともっと軽い気持ちで消費できるはずだ。「タダで食べる夕飯はうまい」とか「おごってもらったランチは美味しい」とか「会社の金で飲むお酒は美味い」という経験は誰しもが持っているはずだ。お金を使うことに嫌悪感や罪悪感を感じやすい不景気続きの日本では、賃上げよりも、その賃上げ分を「他人のお金」として使えるようにしたほうが良いのかもしれない。

欲も夢もやる気もある。ただ、成功の方程式を完成させるためのパーツが揃わない。

http://www.sankei.com/column/news/160302/clm1603020006-n2.html

だが最近は、あえて高級衣料や電気製品をそろえず、必要に応じてレンタルする人々も多い。自動車にしてからが「要るときにレンタルすればよい」という向きも増えている。

 物を欲しくないわけではない。物を買っても自慢できなかったり話題の中心になれないから買わないのだ。新しい物を買っても仲間内でネタとして話題にできるのは数日間だけ。そのために何年も使う衣料品や電化製品を買うのはコストパフォーマンスが悪いのだ。でも、ちょっとは新しい物に触れてみたい。だったらレンタルでいいじゃないか、ということになるのだ。

もちろん、高級ブランド品のように何年たっても評価が落ちない、話題性があるものは買うだろう。しかし、そういう高級なものを庶民が買えるはずもなく諦めるのだ。

逆に言えば、話題になりやすい、自慢しやすいものは庶民でも買っている。スマートフォンがいい例だろう。テレビやエアコンなどを2~3年で買い換えるだろうか。新しい機種が出るたびにニュースで報道されるiPhoneのような話題性を持った高級衣料や電化製品があるだろうか。

http://www.sankei.com/column/news/160302/clm1603020006-n3.html
だが90年以降の日本は経済も人口も頭打ち、よほどの努力と幸運に恵まれない限り、人生を変えるほどの飛躍はない。むしろ予測されるのは意外な転落である。人はみな臆病な心配性になってしまったらしい。

 一度落ちたら這い上がれない。だったら現状維持でいじゃないか、ということになる。
企業だって不用意に物は買わない。短期間しか必要でないものや変化が激しい世界のものはリースやレンタルで必要なときに必要な物だけを使っている。
企業活動でリースやレンタルが当たり前になっているのに、個人消費活動はしっかりモノを買いなさい、と言うのは筋が通らないのではないだろうか。

http://www.sankei.com/column/news/160302/clm1603020006-n4.html
それがなぜ、最近の日本人に限り40歳になっても結婚しない者が多いのか。

 企業だって新規事業に進出するでもなく、ただひたすら内部留保を増やしているだけではないだろうか。いつか出来るであろう新しい市場に進出するためにコツコツとお金をためて備えているのだろう。今時の現役世代は昔と違ってサラリーマンが多い。家計や家庭は企業活動を真似するのだ。企業が給料を減らせば家庭は支出を減らす。企業が社員をクビにするようなリストラを行えば、家庭は子供を産まなくなり家庭内をリストラするのだ。

http://www.sankei.com/column/news/160302/clm1603020006-n4.html

実際、現在の日本社会の最大の危機は、社会の循環を促す社会構造と若者層の人生想像力の欠如、つまり「やる気なし」である。「欲ない、夢ない、やる気ない」の「3Yない社会」こそ、現代日本の最大の危機である。

 つまり「若者層の人生想像力の欠如」ではなく、想像力が豊かであり、人生の成功に必要なパーツは何か、ということも良く分かっていて、自分なりの人生の成功の方程式も知っているのだ。
しかし、そのパーツが揃わない。そのパーツは買うことはおろかレンタルすらできないものばかりなのだ。

http://www.sankei.com/column/news/160302/clm1603020006-n5.html

今の日本は世界で最も「安心で安全で清潔で正確な国」だ。だがあまりにも安全清潔に徹する規制と厳格な基準の故に、人々の楽しみを奪い、やる気を失わせているのではないか。官僚、教育などの猛省を促したいところである。

安心安全、規制と厳格な基準もまた一般の家庭に深く浸透している。社会的な成功より、失敗しない事を重視するのが日本の「安心安全」である。極端と思われる例が原発だろう。100%の安全が確保されないかぎり運転するべきではない、という声が一定量存在するのもこういう「厳格な基準」が良いとされるからではないだろうか。
不確定要素という変数が残ったまま新しいことにチャレンジする物理的精神的余裕が無かったり、認めたがらない癖がついてしまうのも「安心安全」という「厳格な基準」があまりにも「やらない理由」として居心地が良すぎるからなのではないだろうか。

ぼくのかんがえたさいきょうのろーかるせん

この形でレールの上を走ることができるのなら、車高を乗用車並みに低くすれば、山間のカーブの多いローカル線でも130km/hぐらいの速さで走れるんじゃないのかなぁ。

法律その他諸々の問題をクリアすれば200km/hぐらい…は無理かな。
リムジンみたいにちょっと長い車輌にして20人乗りぐらいにすれば、ローカル線の泣き所である運行頻度の少なさも改善されると思うし。

おまけに車の自動運転技術がもうすぐ実用化できるとなれば、レールの上以外にはみ出ない鉄道だったらもっと安全に運行できるから運転手の人件費も減らせるんじゃないかと。

東京で得られるスキルの価値は年収800万円相当。一方、過疎地で得られるスキルの価値は?

若手医師へき地異動、年収800万増えないと…

http://www.yomiuri.co.jp/national/20160109-OYT1T50093.html
 東京勤務の若手医師がへき地に異動するなら、年収が800万円近く増えないと満足しない――。

 日本医師会総合政策研究機構の坂口一樹主任研究員と滋賀大の森宏一郎教授が、医学部卒業後10年未満の若手医師1302人を調査し、就職条件の傾向を分析した。医師偏在の解消の参考になると期待される。

 調査は、国公私立の80大学の内科や外科など計1195診療科を対象に実施。年収、所在地、病床数、休日や当直数など8項目の条件が示された架空の求人票を、医師が1人あたり20枚ずつ評価し、就職したいか判断してもらった。

 へき地や離島の勤務は、大都市圏に比べ不人気で、就職先に選ばれる確率は15・1%低かった。現在の勤務地が大都市圏にあるほどこの傾向が強く、へき地の選択確率は東京では23・8%低下し、北海道・東北の低下は6・0%だった。

若手医師が僻地に移動したがらないのは、将来の見通しが立ちにくいということが一番であろう。そして、将来の見通しが立ちにくい理由の一つが、僻地=人口減少であり、患者そのものが減少することであり、もう一つが医師としてのスキルを身につけにくい、最先端の医療に触れにくくなる、ということではなかろうか。
そして、その見通しの立ちにくさというリスクを埋めるだけの費用が年800万円ということなのであろう。

裏を返せば、地方の若手医師は年収800万円ぐらい減っても東京に出たほうがいい、ということになる。
そのぐらい東京という街に住むこと自体に価値があるということなのだ。

若者は地方をめざす 「地方に仕事がない」はウソ?

http://dot.asahi.com/wa/2015102800061.html
「私は、都会でがむしゃらに働いたことで自分のスキルが身についたと思っています。だから、早い段階で田舎に移住することを若い人に勧めたりしたくない。地方で自分らしい働き方がしたいと思っても、現実はとても厳しい。焦らなくても、きちんと能力を身につけてからで遅くないはず」

高知への地方移住に最も成功した部類に入るであろう、この記事に出てくる町田さんですらこう語っている。
「地方に仕事がない、はウソ」なのかもしれないが、都会で身につけたスキルがないと地方では戦えないということなのだ。
裏を返せば、地方で身につくスキルは価値が低い、新しい価値を生み出さないとも言える。

地方創生の切り札は「よそ者」「馬鹿者」そして「若者」――増田寛也氏インタビュー

http://president.jp/articles/-/16320
よその地域からやってくる人、若い人、そして馬力がある人が、変化を起こしていくんです。

地方に住んでいて、地域おこしに携わった人なら一度は耳にする言葉。
「よそ者」「馬鹿者」「若者」
ソフトに言葉を選んで語っているので気がつかない地方民が多いのだが、要するに「地方民は年寄りのように皆同じ考え方しかできない堅い頭で馬鹿になれないから活性化に使えない」と言っているのだ。
変化についていけない、変化を嫌う地方は生き残れないのは今に始まった話ではない。
よそ者やよその雑多で多様な文化を受け入れ、頭を柔軟にして競争環境でスキルを磨き、それに応えて投資をしてくれる人や支持をしてくれる人がいて、馬鹿になって新しい価値を産む力を発揮できる街、それが東京なのだ。

地方活性化の話になると、ごく少数の成功例がニュースになって全国の僻地を駆け巡る。
僻地に移住して年収1000万円稼ぐことが出来ました!という華々しいニュースが流れても、それに続く人が居ない。それは、僻地は衰退していくもの、今は稼げても将来が不安、という規模的な話を無視することが出来ない上に、一旦僻地に行ってしまうと東京に戻って再び仕事ができるレベルのスキルを身に付けることが出来ないであろうという「スキルの都落ち(大貧民化)」の恐怖に怯えることになるからである。このコストが年収800万円ということである。大学もないような僻地で高度なスキルを身につけようと思ってもそう簡単ではないのは誰しもが感じるところだろう。極端なことを言えば、東京で得られる年収200万円と地方で得られる年収1000万円が同じレベルということなのだ。
数年後、市場そのものが無くなってしまうかもしれない、スキルが通用しなくなってしまうかもしれない、大企業が進出して自分の仕事を奪っていくかもしれない、来年は年収ゼロになるかもしれない、いざというときのアルバイト先も転職先もない、その恐怖に怯えながら僻地で得られる年収1000万に若者は憧れるだろうか。夢を持てるだろうか。
殆どの若者は、過疎化という自分の力だけではどうしようもない問題に立ち向かうより、ワープアでも働いて生きていける東京を目指すだろう。そして、僻地より価値のあるスキルを身に着けていつかはまともな生活を…という夢と「住むだけで年収800万円相当」のスキルを東京で得るのだ。
言い方を変えれば東京には年800万円のベーシックインカムという制度があります、と言われれば大抵の若者は東京を目指すでしょう。
つまり、地方は、過疎地は、これ以上の価値を提供できないと活性化しないということなのだ。