地元志向とは「あるあるネタ」志向である

地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会 [著]阿部真大 - 大澤真幸(社会学者) - 本の達人 | BOOK.asahi.com朝日新聞社の書評サイト

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「地元と聞いて思い出すものは何ですか?」というアンケートをとったときに返ってくる答えは、「イオン」「ミスドミスタードーナツ)」「マック」「ロイホロイヤルホスト)」などである。この答えは驚きである。なぜなら、これらのものに、地元的な固有性はいささかもないからである。

インターネットを使ったコミュニケーションを使いこなす若者が大事にするのは共通体験である。
従って「地元と聞いて思い出すものは何ですか?」という問いに「近所の○○商店」とか「地元名物の○○まんじゅう」では仲間同士の共通体験になりえず、さらにSNSで知り合った見たこともない仲間との共通体験にもなりえない。

双方の仲間を満たす共通体験はイオンでありミスドでありマックでありロイホなのだ。これら商業施設は全国津々浦々に存在することが肝なのだ。

例えばハンバーガーを買って食べるという行為をしても、地元の喫茶店で売っているとても美味しいご当地バーガーを食べても、その体験を共有してくれる人は少ない。少々味は落ちても、マクドナルドのハンバーガーでなければダメなのだ。

例えばコカ・コーラを買って飲むという行為も、近所の自販機で買って飲んだり、地元の大型スーパーで買って飲んでも、その体験を共有してくれる人少ない。売ってるものが全く同じであっても、イオンやセブンイレブンで買って飲むからその共通体験を共有してくれる人がたくさん生まれ、若者は幸せを感じるのだ。

そして、この共通体験をもっとも共有しやすい都市こそ、地方都市なのだ。

東京ではもっと美味しい一流シェフが作ったハンバーガーがあったり、見たこともない変わり種のハンバーガーがあったりと、マクドナルドを超越したハンバーガーを出すお店がたくさんあって、話題作りの先頭を走れる状態にある人がたくさんいるのだ。

ところが、地方では話題の先頭を走ることは難しい。
と、なれば、先頭を走ることは無理でも、大多数の平均値、ど真ん中に居ることで「あるある」話に花を咲かせられる共通体験の多さというポジションに居ることが可能となる。

彼らは、地域の人間関係に対して、ことのほか背を向けている、ということになる。地域の共同性が好きでもないのに、わざわざ地方にとどまっているのだ

このことからも分かるように、若者は地域の土着性を気に入って地方に住んでいるわけではない。
田舎にいながら、最低限の都会的な話題についていけるポジションがいいのであって、地元民との濃密でローカルな話題に混ざりたいとは思っていないのだ。つまり、地方に住んでいながら、話題の種は「全国区」の話がしたいのである。
逆に言えば、若者に海外志向がないのも同じ理屈である。海外にイオンやミスドやマックやロイホが日本並みに出店していれば共通体験には事欠かないが、そんな外国は殆ど無いだろう。

この感覚は東京に住む人には案外わかりにくいのかもしれない。
東京に住む人にわかるように例えるなら、Amazonが「東京には配達しません」と言ったらどう感じるだろうかを考えてもらうと分かるかもしれない。
地方の若者は大なり小なりこういう疎外感を味わっているのだ。

地方都市は、余暇の楽しみのための場所がない田舎と刺激が強すぎる大都市との中間にある「ほどほどパラダイス」になっている、というのが、本書の前半の「現代篇」の最も重要な主張である。

田舎過ぎるとイオンもミスドもマックもロイホも存在しなくなる。これでは「あるある」話についていくことすらできず、非常に惨めな思いをすることになる。

彼は、東京とか日本とかといった領域が意味をもたないような、グローバルで普遍的な空間(大洋)を移動する。しかし、その自由な移動のためには、地元を超える地元に根を張る夏が必要だ。こうした両極の短絡的な結びつきは、どのようにして可能になるのか。

あまちゃんの例はちょっと極端にしても、インターネットで話題になることをふんわりと眺めてみれば分かるのではないだろうか。
ニコニコ動画にコメントをつけると楽しいのは擬似的に同時に他人と動画を視聴している気分が味わえるからであり、オンラインゲームで外国人とパーティを組んで遊べる時代であり、iPhoneを手に入れて、世界共通のアプリを動かす体験をすることができる時代だからである。
これ全て、鍵は共通体験の共有にある。

しかし、共通体験を共有するだけなら東京でもいいのではないだろうか?

もちろん東京でも共通体験は可能だ。むしろ人口が多い分チャンスも多いだろう。しかし、東京は忙しすぎるのだ。
生活にお金がかかりすぎたり、仕事や通勤時間が長すぎて共通体験をする時間がないのだ。それどころか、ブラック企業に勤めようものなら、共通体験どころか、まともな生活が送れない可能性が出てくる。
それに比べれば、地方は生活にかかるお金もそれほど必要ないし、通勤時間も短いから自由な時間が持てる。
これはいわゆる「ワークライフバランス」に通じるものがあると言って良いだろう。

田舎すぎない地方というのは、田舎と都会の両方のいいとこ取りができるのだ。東京のような大都市で最先端を行く尖ったポジションにいたいというのであれば、それは地方ではかなわないだろう。

尖ったポジションを獲得するための生活、忙しすぎて自分の時間が持てない生活。それが東京で生活することの犠牲になるポイント…すなわち、イオンにもミスドにもマックにもロイホにも行けなくなる生活では、それは田舎暮らしをしているのと同じことなのだ。