生産性は黒字にすべきという「黒字ファースト」の人は何を生産しているのか

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自民党杉田水脈衆議院議員が、月刊誌で性的マイノリティーの人たちについて、「『生産性』がない」などという考えを示したことを受け、障害のある人や難病患者を支援する団体が、『生産性』で人の価値をはかる考えが広がるおそれがあるとして、横断的な組織を立ち上げ、抗議の意思を示していくことになりました。

 差別はダメ。
これは改めて言うまでもない。
しかし、ちょっとだけ引っかかるところがある。
「生産性がない」人と言うのは何を言ってるのだろうか。ここを捉えずにただのマイノリティー差別だと騒ぐだけでは本質を見誤るのではないだろうか。
おそらくこの人が言う「生産性がない」人というのは、生産をせず消費のみをする人、もしくは、生産をするけどそれ以上に消費をする人の事を指しているものと思われる。これらは主に経済性を指すことになるのだろうけど、経済性だけではなく無償の労働のような数字に現れない活動も大いに含まれるので、トータルで考えると人の感じ方に寄るところが大きいのではないだろうか。
数字に表しにくいが生産性が高いであろう事例の一つが「子育て」ということになるのではないか。

「病気で子どもを産めない自分の価値を否定されているようだ」

 だからこそ、こう感じ取ったのだろう。
障害者だろうがマイノリティーだろうが多くの人は一生懸命生きて、できる限りのことをしていると思う。それでもトータルで「生産性がマイナス」になる人もいるだろう。企業の赤字部門をリストラし、社員をクビにして立て直し、黒字にし、無借金経営こそがあるべき姿だ、それは家計も企業も国家も変わらない、と考えたかもしれない人がいる。

人を生産性で区別する考えをめぐっては、19人が殺害された障害者殺傷事件の被告が、生産能力のない重度の障害者は生きている価値がないという趣旨の発言を繰り返しています。

 この事件を起こした人はそう考えているのではないだろうか。殺害された方はたまったものではない。この人達は意図して生産性を下げているわけではないのだ。


とはいえ、生産性がプラスになる人と生産性がマイナスになる人の生産性を合計してマイナス、すなわち生産性が赤字になったら社会が成り立たないではないか、と考えたくなるのだろう。
極めてサラリーマン的な発想で言えば、年収500万円の人より年収1000万円の人は生産性が2倍高く、年収250万円の人は生産性半分、年収ゼロの人は生産性がゼロ、年金生活者や生活保護受給者は生産性がマイナス、ということになる。


しかし、これらの人は何を生産しているのだろうか。


職業に貴賎なしと人はいうが、生きていくのにあってもなくても良いもの生産して年収1000万円の人、農産物を生産して年収200万円の人、子育て中で年収ゼロの人、それぞれの生産性がそこにある。
そしてこの辺の評価を間違うからこそこういうおかしな理屈がまかり通るのではないだろうか。今の世の中、えてして「生きていくのにあってもなくても良いものを生産」する方が所得が高かったり、生きるために必要なものを生産している人ほど所得が低かったりする。

news.livedoor.com保育士はおそらく結構必要とされる仕事だと思われる。
が…何かを生産しているかと言うと、形になるものは何一つ生産していない。

しかも、ホリエモンに言わせれば

「誰でも(やろうとしたら大抵の人は)出来る(大変かもしれない)仕事だから希少性が低く(コンビニバイトなどと同様に)給料が上がらない構造になっている」

 ということなのだ。つまり、希少性で生産性が決まるわけであり、必要度に応じて生産性が決まるわけではない。むしろ誰しもが必要なものだと思えば価格を下げろという圧力がかかりやすいとも言える。だからこそ「生きていくのにあってもなくても良いものを生産」する方が所得が高くなるといえるだろう。

で、それで良いのか?
みんなが「生きていくのにあってもなくても良いものを生産」する仕事をしていればいいのか?
これこそ「生産性がない」人なのでは?