「当たり前」の権利と「当たり前」の保障の間に横たわる溝

http://diary.lylyco.com/2008/09/post_170.html

思うに「当たり前」を混乱させる要素はふたつある。ひとつはもういい加減語り尽くされているだろう「健康で文化的な最低限度の生活」の基準問題である。IT土方として土日もなく1日16時間ほど働きただ寝るためだけの部屋に帰宅しコンビニ弁当を食らって泥のように眠る。ホームレスとして1日10時間ほど空き缶集めに勤しみただ寝るためだけのダンボールハウスに帰り残飯を食らって泥のように眠る。どちらがより不健康で非文化的かと問われてもぼくには答えられないし、どちらの生命がより死の危険に晒されているかもぼくにはうまく判定できない。救済されるべきは、どちらか?

昔は日本人総中流時代は「人並み」と言う言葉で片付いたんだろうなぁ、と。
この文章に納得しつつも、線引きをしようと思うと難しい。私だったら「個人の財産」と言う観点で線引きするしかないんじゃないかなぁ、と。
具体的に言えばこんな感じ。
健康で文化的な最低限度の生活」の「健康」。これはいわゆる最低限の健康を担保する「国民健康保険」で何とかなっている。とはいえ、万に一つの難病の治療まで保障するかと言うとそうではないだろう。
「文化的」。ここが結構厄介。よくある話が「地方では車がないとやっていけない、仕事もできない」と言う話。これは仕事をしていく上での「保険」である公共交通機関が貧弱すぎるからこういう矛盾が噴出す元になる。また、都市部では高すぎる住居環境に対しての「保険」である公営住宅が少ない、と言うことになるのであるが、実はこれは公共交通機関と車の両輪になるところだ。つまり、一等地に立地する必要はない。郊外で十分なのだ。ただ、公共交通機関を利用できる環境である必要はあるかと思う。
そして「最低限の生活」。まぁ、衣食の現物支給ぐらいは必要であろう。電話や冷暖房も必要であろう。しかし、あくまで現物支給だ。ここに「好きなものを得る自由」があるわけではない。

もうひとつの混乱は「権利」と「保障」の関係にある。権利を保障することと生活を保障することはイクォールではない。つまり、すべての国民に対して「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障することは自明かもしれないけれど、すべての国民の「健康で文化的な最低限度の生活」を保障することが自明かどうかは定かではない。話を分かりやすくするために極端な例を挙げる。ここに、いわゆる植物状態の人がいるとする。この人にも生存権、即ち「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」はある。けれども「健康で文化的な最低限度の生活」を国が保障することは困難だ。

そこでこれが出てくる。「保障」はする。「権利」もある。しかし、選り好みはできないし、受けるサービスも人並み、と言うことだ。この例でいけば「植物状態の人間」を生きながらえさせることが大抵の人にできる医療行為だろうか。この手の治療を受けさせ続けるにしても、1ヶ月〜3ヶ月程度が一般的ではないだろうか。それ以上は医療費の問題などもあって医療行為を続けられないだろう。つまり、これ以上は人並みではないと言うことになろう。いかに「生存権」があろうとも、不老長寿を保障するものではないからだ。

上の例に戻ろう。衣食住の現物支給によって、「健康で文化的な最低限度の生活」は保障される。食べ物は名産品でなければ、着るものはブランド品やおしゃれなものでなければ、住む場所は一流の便利なところでなければ、という事にはならない。気分的な面はよほどのことがない限り無視することになる。機能的に満足していれば良いと言うことになる。居心地の良すぎる生活保障は働く意欲をなくす。働いている人より生活保護を受けている人のほうが収入が多いのはおかしい、と言うのもこの感覚があるからだ。個人の財産がゼロに近い状態でも最低限の生活ができる、と言うことであって、最低限の生活をするための財産は持ってよい、と言うことではないと思う。その分、最低限の公共投資はしてもらわなければならないわけなんだけど。