いじめられる気持ちを思い知れ、絶対強者なんて許さないという気持ち

“いじめ自殺”ネットが異常暴走!加害生徒をさらしてリンチ状態

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20120713/dms1207131129013-n1.htm
「(ネットユーザーは)初めのうちは義憤であったり正義感などで動いたのだろうが、いつしか情報を暴いて加害者を攻撃することが目的になっている」と指摘。

まぁ、そういう奴もいるだろう。

だか、本質はそこではない。加害生徒が逮捕されて欲しいとか、裁判で有罪になって欲しいとか、そういう気持ちは二次的なものであって本質は違う。本質は「いじめられた生徒の気持ちを思い知れ」という事だ。
複数の生徒から日々いじめられる。学校に訴えてもダメ。警察に掛け合ってもダメ。この救いようのない事態を同じ長さの時間、同じ回数、同じ痛みを心で、身体で思い知れ、という事なのだ。
それゆえ、警察に捕まって身柄を保護され、法の裁きを受け、罪を償うというだけでは足りないと言う事なのだ。
日常の中でいじめにおびえおののきながら24時間ひと時も心安らぐことなく生活する苦しみは、法の裁きでは思い知る事が出来ない、という気持ちの現れであるのだ。

その一方、義憤や正義感とはまたちょっと違った気持ちがこもっているようにも見える。
被害者が救いを求めた学校や教育委員会、警察がまったく役に立たなかった。それどころか、これらの組織はいまだに自己保身と責任逃ればかりを考え、現状から逃げよう、目を背けよう、なかった事にしようという思いばかりが伝わってくる。
それに対し、加害生徒だけでなく、こういった組織に対しても加害生徒と同じ加害組織である、お前らも自殺した少年の思いを知るべきだ、権力と地位に守られた絶対安全のポジションからの高みの見物は許さない、という怒りの表れである。

街のすべてから見捨てられた少年や家族の気持ちかいかばかりか。
県庁所在地という大都市レベルで社会正義が失われ、味方になってくれる人をすべて失い、30万市民すべてが敵に見えたのではなかろうか。

その気持ちを察する事ができるから、せめてネット上では被害者の味方になってあげたい、という事なのだと思う。

「個人情報をネットに書き込む危険さは、間違って無関係な人の情報をさらした場合、侮辱罪や名誉毀損に問われる可能性があること。今回のように加害生徒に関係のある人の情報でも、刑事事件は難しくても民事的に損害賠償請求はあり得る」

ネット上に個人情報を書き込んでいる人は、多かれ少なかれ、こうなる事を知っていると思う。分かっていても声を出すべきだ、ネット上に表現すべきだ、と思っている人たちだと思う。

事件解決の見通しも何もないまま「加害者にも人権がある」なんて言っても納得できる人は少ないだろう。本音を言えば「被害者の人権なくして加害者の人権なし」といったところだろう。

「リスクを負わず、ネット上でギャーギャー騒いでいるだけの人に何ができるか?」なんていう人も目に付くが、警察に届けを出した上で、プラカードや横断幕を掲げて、秩序正しく大声出して街中を練り歩くデモ行進に意味や効果を感じる人がどれだけいるのだろうか。結果を出さないと意味がないと感じる人はデモ行進よりネットでの書き込みを選ぶだろう。デモ行進はせいぜい数万人の参加者と、わずか1分程度テレビでニュースに取り上げられておしまい。翌日には忘れられてしまうだろう。あとは参加者が活動家扱いされるのが関の山である。しかし、ネットならうまくいけば数日はホットな話題として取り上げられ、数十万人から数百万人レベルに意図が伝わり、あとから主張を再確認する事も容易である。

「このままでは第2、第3の自殺者が出かねない」

本音を言えば「加害者も自殺して欲しい」といったところなのではないだろうか。
被害者の気持ちを思い知れ、という気持ちが根底にあるのだから、裁判で罰を受けるのではダメなのだ。絶望に打ちひしがれた気持ちの中、どうして自分は死ななければならないのだ、と深い疑問と、死にたくないという本音を抱きながら、自らの手で自らの命を絶ってこそ、被害者の気持ちを知る事ができる、という事だろう。

こういうニュースやコメントが出ること自体、いじめられた事がある人自体が少数である事の証であり、本当にいじめられる事の悔しさや恐怖を味わった事がある人が少数であることの証だろう。