地方の一軒家より東京の3畳ワンルームが示す「住みよさ」「所有」の無意味さと「新・借景」の価値

都心の3畳ワンルーム物件が人気になる理由はいろいろとあるだろうが、おそらく大きな要素は2つあると思われる。
1つはモノより時間が大事な時代になっているので少しでも利便性の高い場所に住むことの価値が高まっているであろうということ。
もう1つは、社会インフラやサービス産業が充実したことでモノを所有する必要がなくなってきたこと、そのかわりになる公共サービスや民間サービスが充実している場所に住めば良いと考えるようになったことだと思われる。

都心に位置していますから、周辺には様々な店舗が深夜まで営業しています。台所もリビングもいりません。食事は健康に気を使ったメニューが豊富な飲食店へ行き、コーヒーを飲みながら読書を楽しむなら近所のカフェを訪れるという具合です。

 かくしてこういう価値観になっていくのはある意味自明であろう。もっとも、こういう生活をせざるを得ないという事情も多分に含まれているとは思われるが、独身者ならこれで十分。いやむしろ、結婚や子育てを諦めている層なら尚更こういう生活にシフトしていくことが金銭的にも時間的にもメリットが得られるだろう。

こういう事を考えると、ちょっと考えたくなる有名なランキングがある。
 東洋経済が毎年発表している「住みよさランキング」である。
このランキングが現実的なものであるならば、ランキングのとおりに人が移動するはずであるが、現実は東京一極集中が続いている。
このランキングはいろいろな指標を組み合わせて順位をつけているが、東京の3畳ワンルームに人が集まる状況を考えると「住みよさ」という指標がすでに現実と合っていないのではないだろうか。
具体的に言えば「住宅延べ床面積」や「持ち家世帯比率」なんて大して意味がないということである。昔はモノを自分で所有する必要があったため、家も広くなければならなかったし、そういう価値観だった。でも今はモノに対する所有欲もなくなり、ソフト化が進んだ現代ではハードが陳腐化するスピードが早く、モノを持ち続ける意味がなくなってきているのだろう。そうなれば広い家はあまり意味を持たず、むしろ、最新のサービスをいかにすばやく手軽に享受できる環境に身を置くかが重要だということなのだ。
日本の文化に「借景」というものがある。庭の外の山や風景をわが家の庭の風景に取り込んで庭造りをするものだ。都心の3畳ワンルーム物件は、自前の庭はほぼゼロだけど庭の外には充実した公共サービスや民間サービスという非常に美しい風景が広がっているということだ。つまり「住みよさランキング」でいう「安心度」「利便度」「快適度」では全く測れていない公共交通機関の充実度や民間サービスの先端性、市民の文化水準、しがらみの強さ、自己実現度などが「住みよさ」以上に人口動態に大きく関わっているということだろう。

東京の唯一の弱点と言ってもいいであろう「通勤時間の長さ」をこれで克服できれば、都心の充実したサービスが受け放題、というのなら「住みよさ」や「所有」にこだわることは無意味な時代が来たということなのだろう。

言い方を変えれば、東京は若者や貧乏人に優しい街だということだろう。
地方では若者は自己実現もままならず、年寄りにこき使われ、意見も通らず、稼ぎが東京より少ないのに家賃は都市部とそれほど変わらず、それでいて地方は公共サービスや民間サービスは貧弱なので、借りるべき風景がないので経済的にもサービス的にも貧しい生活を強いられるのだ。