性交渉、男性はリスク回避が難しく、女性はリスクゼロまで下げられる

セックスレスは日本の国民病? 明治大学文学部准教授・平山満紀

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120505/wlf12050507000000-n1.htm
性的に嫌な夫を拒めない妻が、意識的無意識的にねじれた表現をしていると推測できる。

これはセックスレスに限った話ではないだろう。
日本人が持つ過剰なまでのリスク回避精神の一つがセックスレスなのだ。
上の例についても、当時の夫婦関係は「離婚は恥ずべきこと」という大きなリスクが存在していたから、如何に離婚せずに夫を拒むかということに意識が傾いていったのであろう。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120505/wlf12050507000000-n2.htm
女性に性的な主体性を認めない社会は少なくない。アフリカの広い範囲では女性器切除によって女性の感覚を破壊し、多くの社会で女性だけに貞操義務を求めたり活動の制限をするなどだ。これらの社会と比べると、女性が拒むことによるセックスレスが起きるのは、女性の苦痛がなくなっただけ良くなった社会だと言える。

セックスは男女がそれぞれ持つリスクとリターンの交換と言う意味が含まれるとても生々しい行為だ。
女性に性的な主体性を認めない社会が多いのは「女性に主体性を認めると生まれてきた子どもの男親が誰なのかが分からなくなるから」という男性が持つ根源的なリスクに行き着く。それを防ぐために男性は女性には貞淑であることをきつく求め、その代わり経済的リスクは男性が全面的に背負い、両者が負うリスクから回避できないように「離婚は恥ずべきこと」という社会規範で縛ってきたと言う流れがあると考えるのが自然であろう。
もっともその一方で男性は浮気をするものという、男性にとって都合のいい、女性にとって都合の悪い解釈を押し付けてきたことも事実であろう。
しかしこれは「女性に主体性を認めると生まれてきた子どもの男親が誰なのかが分からなくなるから」という男性が持つリスクを回避するための策である。よって、女性に貞淑であることを求める以上は男性も浮気をしてはならない、と言うことになる。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120505/wlf12050507000000-n2.htm
女性が欲求してきたり、男性の欲求を拒むこともありうる。女性の性的快感は非常に多彩で複雑だが、男性はわかりにくい女性の快感のしくみにつきあわなければならなくなる。うまくやれなければ男性は女性から非難され、傷ついて自信をなくす可能性もある。

ところが、女性の主体性を認めると言うことになると話が変わってくる。
「女性に主体性を認めると生まれてきた子どもの男親が誰なのかが分からなくなるから」という男性が持つリスクを受け入れるばかりでなく、女性自身や生まれてくる子に対して、より良い肉体とより良い経済力を提供してくれる男性を探し続けるため、男性をとっかえひっかえし続けるということが発生する。「女性は選択する性」「女性の恋愛は上書き保存」というのもこのためであろう。かくして、女性の売り手市場が出来上がることになる。理論上、有限の存在である女性は男性を選り好みをすればするほど、女性自らの価値を無限に吊り上げることができるのだからどれだけ選り好みしても「どこかにもっといい人がいるに違いない」と感じ、いつまでたっても満足できないのはこういうことだからだろう。

一方、有限の経済力しか持ち得ない男性はどうなるか。
「女性に主体性を認めると生まれてきた子どもの男親が誰なのかが分からなくなるから」というリスクを受け入れざるを得ないのに、社会のルール上「浮気は禁止」のままだからリスク回避が出来ない。
もっとも、それでも女性は種族繁栄のための最大の生産行動であり、最大のリスクでもある「出産」をすることに変わりはないのであるが。

男性が女性を獲得する制度の一つに一夫一婦制と言うものがある。
本来、一夫一婦制と言う制度は有限の存在である女性の価値をむやみに吊り上げることなく、男性にできるだけ等しく分配するための制度である。これにより女性の「暴騰」とそれに伴う男性同士の争いを未然に防ぐ役割がある。
ところが、昨今の男性の主張はどうか。少子化対策の議論になると必ず出てくる言葉がある。
「一夫多妻制にしたらどうか」「金持ちの男性がたくさんの女性と結婚して子どもを作って育てればよいのではないか」「貧乏な男の遺伝子より金持ちの遺伝子を残すべき」
という意見である。
これは男性を一人の人間としてではなく、経済力に応じて女性を割り当てるべき、という視点に立つ論であり、ある意味合理的である。
「子どもは社会全体で育てていくべきであり、母親一人にその役割を背負わせてはならない」
という声にも適合しやすい制度だろう。

こういった論議は「リスクを背負ってでも子どもを作って育てよう」という、生産や創造に付きまとうリスクを受け入れようという生産性のある視点から語っているのでまだ救いがあるのだ。

ところが、セックスレスは「リスクを背負う位なら子どもなんていらない」というような生産性のない視点から語っているから救いがない。もちろん、セックスは子作りのためだけではないのは百も承知だ。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120505/wlf12050507000000-n3.htm
他の先進国の多くでは性解放の後、男女は性的主体としてほとんど格闘のようにコミュニケーションを重ねている。自分の性的志向や相手に何を求めるか、語り合い確かめ合う。試行錯誤も多いが、充実した関係を求め続けている。日本では主体性が幸せなセックスを追求することでなく、拒むことにしか使われていないのは残念である。

自分の性的志向や相手に何を求めるか、語り合い確かめ合うことができない。相手の要求を聞き入れ、飲むことはリスクにつながるからだ。それがほんの些細なリスクであって、得られるリスクが多大なものになる可能性があるとしてもだ。
自分の性的志向を語ること。相手に求めたいこと。これを相手にさらすこと自体が男性にとってリスクなのだ。
なぜそうなるか。
女性が主体性を持った以上、女性には主体的にセックスを拒否することが出来るし、受け入れることもできるようになった。セックスと言う行為そのものの主導権を女性が握ったのだから当然である。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120505/wlf12050507000000-n2.htm
うまくやれなければ男性は女性から非難され、傷ついて自信をなくす可能性もある。男性は射精すれば欲望はひとまず解消するが、女性は続けることができるので、男性はその欲望に応えきれなくなるかもしれない。このような状況を招かないために、男性たちは女性の性的な主体性を奪ってきたといえる。

結果、こうなった。やる前から分かっていた話だ。
セックスを受け入れるか拒否するかの主導権を女性が持っているにもかかわらず、女性が持つ欲望に応えられなかったら悪いのは男性だと言う判定を下される。主導権を握ると言うことは、相手の弱さや不備も受け入れることが必要なのだが、出産と言う最大のリスクを伴う「選択する性」たる女性はリスクを徹底的に回避するのは当然のことなのである。
男性からは「だったら女性から誘え」という声が出てくるのも当然の結果なのだが、せっかく握った主導権を女性が手放すはずがない。主導権を手放すリスクを負うぐらいならセックスなんてしなくて良い、と言うことになるのが女性の判断なのだ。
セックスレスを解消したかったら、主導権は男性に戻すしかないのである。出産と言う最大のリスクを伴わない男性のほうがリスクを背負いやすいのだから。