「ありのままの稼ぎで満足してほしい」「そんなんじゃ足りねーよ」というかぐや姫的なおとぎ話

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彼らが稼ぎ手としての重圧に反発した一方、他方では女性との愛をいっそう理想化していったことである。

なぜそうなったのか。答えは簡単。男性がいくら稼いでも女性は満足しなかったからである。

 

男性の基本的な生存戦略は「最小のリソースで最大数の子孫→量的拡大」である。絶対にここからは逃れられない。ゆえにせっかく稼いだリソースの消費はできるだけ減らしたい。

一方、女性の基本的な生存戦略は「最大のリソースを一人の子孫→質的拡大」である。絶対にここからは逃れられない。ゆえに一人で稼げるリソースには限界があるため、できるだけたくさんの人の支援が必要になる。

愛されるためのテクニックとは、基本的に相手の求めていることに配慮することを教えるものである。

 つまり、愛されるためのテクニックは、女性が自覚しているような人間性を中心としたものではないのだ。それを男性は見抜いているし、男性にとってはそもそも都合が悪いことなのだ。

このように女性の側の「愛され力」を肯定したり、それを身につける苦労について語ったりすると、男性は「愛され力」のかわりに、経済力を求められて大変なのだという話が必ず出てくる。収入の少ない男性がいかに結婚できていないか、いかに男性は収入が少ないというだけで、女性から不当に排除されているかという訴えがあとに続く。

 経済力という名のリソースを求めるという女性の基本的な生存戦略を男性はよく知っている。女性が行っている「愛され」は、男性から見ると「心地の良いゆすりたかり」と大して違わないのだ。ゆえに、男性は「愛され」と経済力を結びつけるのである。

「天使のような女性が自分を受けとめてくれる家庭」というのが、男性のファンタジーであったということである。

 これは確かにファンタジーであろう。しかし、これは気持ちの問題ではなく経済力の問題なのだ。
夫婦や恋人同士において、男性を財布やATM扱いすることが少なくないのは、女性が男性に対してリソース供給源という役割を期待しているからに他ならない。男性はそこに「ありのままの自分」を受け止めて欲しい、と言っているのだ。

つまり男性は「供給できるリソースは少ないけどそれで我慢してほしい」と言い、女性は「ダメだ、それじゃ足りねーよ」と言ってることを、言葉を変えてるだけなのである。

男性たちは自らに課された性別役割には反抗しながら、恋愛という関係の中で、女性たちにはそんな彼らを受けとめるという「女性役割」を求めた。このようなダブルスタンダードを含みこんで、女性との恋愛は理想化されていったのである。自分は男性役割から解放されたいが、女性には相変わらずケア役割を求めるというダブルスタンダードは、現在においてもみられるものであろう。

 ダブルスタンダードなのは女性も同じ。
「私は稼ぎたくないけど、男性からのリソースは供給してほしい」というのは弱者である女性は保護されて当然である、というスタンスに立ちながら、「私が働いた時は、弱者女性としての配慮プロセスは欠かさず行ったうえで、結果としてのリソース配分は平等にしてほしい」と訴えつつ、「私が稼いだリソースをなぜ男性に供給しなくてはならないのか」と反発するのは、女性の基本的な生存戦略である「最大のリソースを一人の子孫→質的拡大」を忠実に実現しようしているのだ。だからこそ悪意がない。何が悪いのか、と疑問すら抱くこともない。

恋愛という個人的な経験にも、労働とケアを配分する現行のシステムのあり方が、色濃く反映されているのである。

 この文章を借りて言えば、労働もケアもリソースを獲得するための行為であり、獲得の手段が男性は社会から、女性は男性から、というリソース供給元の違いがあるだけ、ということなのだ。ゆえに、男性は「社会から愛され」ようとし、女性は「男性から愛され」ようとしてるのだ。

むしろ問題なのは、同じことをやってるのに「男性はもっと努力をすべき」「女性はもっと保護されるべき」と扱いが変わっていることなのだ。

母・主婦役割を離れた「ありのままの自分」というものが、女性には実質的に、ほとんど許されなくなっていったことを意味する。

 主夫を望む男性に女性はリソースを供給してくれるんでしょうか。女性が主婦であることを押し付けられる以上に嫌なのではないでしょうか。

男性の「ありのまま」が私的関係においてのみ許されたように、特定の領域での「ありのままの自分」の解放が、他の領域での抑圧とセットになっている可能性にも、私たちは注意深くなくてはならない。

 いいとこ取りはできないよ、って解釈するなら正しいと思うけど、美味しいところを取ろうとすると不味いこともついてくるから上手に避けろ、といってるならこの話は支持されないだろう。

生産性は黒字にすべきという「黒字ファースト」の人は何を生産しているのか

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自民党杉田水脈衆議院議員が、月刊誌で性的マイノリティーの人たちについて、「『生産性』がない」などという考えを示したことを受け、障害のある人や難病患者を支援する団体が、『生産性』で人の価値をはかる考えが広がるおそれがあるとして、横断的な組織を立ち上げ、抗議の意思を示していくことになりました。

 差別はダメ。
これは改めて言うまでもない。
しかし、ちょっとだけ引っかかるところがある。
「生産性がない」人と言うのは何を言ってるのだろうか。ここを捉えずにただのマイノリティー差別だと騒ぐだけでは本質を見誤るのではないだろうか。
おそらくこの人が言う「生産性がない」人というのは、生産をせず消費のみをする人、もしくは、生産をするけどそれ以上に消費をする人の事を指しているものと思われる。これらは主に経済性を指すことになるのだろうけど、経済性だけではなく無償の労働のような数字に現れない活動も大いに含まれるので、トータルで考えると人の感じ方に寄るところが大きいのではないだろうか。
数字に表しにくいが生産性が高いであろう事例の一つが「子育て」ということになるのではないか。

「病気で子どもを産めない自分の価値を否定されているようだ」

 だからこそ、こう感じ取ったのだろう。
障害者だろうがマイノリティーだろうが多くの人は一生懸命生きて、できる限りのことをしていると思う。それでもトータルで「生産性がマイナス」になる人もいるだろう。企業の赤字部門をリストラし、社員をクビにして立て直し、黒字にし、無借金経営こそがあるべき姿だ、それは家計も企業も国家も変わらない、と考えたかもしれない人がいる。

人を生産性で区別する考えをめぐっては、19人が殺害された障害者殺傷事件の被告が、生産能力のない重度の障害者は生きている価値がないという趣旨の発言を繰り返しています。

 この事件を起こした人はそう考えているのではないだろうか。殺害された方はたまったものではない。この人達は意図して生産性を下げているわけではないのだ。


とはいえ、生産性がプラスになる人と生産性がマイナスになる人の生産性を合計してマイナス、すなわち生産性が赤字になったら社会が成り立たないではないか、と考えたくなるのだろう。
極めてサラリーマン的な発想で言えば、年収500万円の人より年収1000万円の人は生産性が2倍高く、年収250万円の人は生産性半分、年収ゼロの人は生産性がゼロ、年金生活者や生活保護受給者は生産性がマイナス、ということになる。


しかし、これらの人は何を生産しているのだろうか。


職業に貴賎なしと人はいうが、生きていくのにあってもなくても良いもの生産して年収1000万円の人、農産物を生産して年収200万円の人、子育て中で年収ゼロの人、それぞれの生産性がそこにある。
そしてこの辺の評価を間違うからこそこういうおかしな理屈がまかり通るのではないだろうか。今の世の中、えてして「生きていくのにあってもなくても良いものを生産」する方が所得が高かったり、生きるために必要なものを生産している人ほど所得が低かったりする。

news.livedoor.com保育士はおそらく結構必要とされる仕事だと思われる。
が…何かを生産しているかと言うと、形になるものは何一つ生産していない。

しかも、ホリエモンに言わせれば

「誰でも(やろうとしたら大抵の人は)出来る(大変かもしれない)仕事だから希少性が低く(コンビニバイトなどと同様に)給料が上がらない構造になっている」

 ということなのだ。つまり、希少性で生産性が決まるわけであり、必要度に応じて生産性が決まるわけではない。むしろ誰しもが必要なものだと思えば価格を下げろという圧力がかかりやすいとも言える。だからこそ「生きていくのにあってもなくても良いものを生産」する方が所得が高くなるといえるだろう。

で、それで良いのか?
みんなが「生きていくのにあってもなくても良いものを生産」する仕事をしていればいいのか?
これこそ「生産性がない」人なのでは?

年収800万円でも子育てが難しいのは「我が子を勝ち組にする保証がないから」

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公教育だけでなく習い事費用なども含め、お金がかかると考えているのだろう。少ない子に大きく投資した方が子どもの将来に有効だと、親が考えている表れかもしれない。

 これはそのとおりだろうが…

お金をかければ子どもがよく育つわけではないことも、今後明確に科学的に示す必要があるのではないか

 これは難しいのではないだろうか。
お金をかければかけるほど悪くなる、という科学的なデータでも出てくればお金はかけなくなるだろうけど、そうでなければ限界までお金をかけようと思うだろう。つまり、何故そこまでお金をかけるのか、ということを考えなければ根本的な解決にはならないのである。

では何故そうなるか。

妻と夫の意識の差が正直に現れた。一方で、妻は夫を子育てで頼りになる存在とも考えている。

 肌感覚でも大半の人が感じていると思うが、現実として子育ての担い手は夫より妻のほうに大きくウエイトがかかっている。つまり、子育ては女性主体となっている。一方、昔のように「跡継ぎの男の子が生まれるまで産め」とかいう時代ではない。女性は妊娠という大きなリスクを負うため、少なく産んで大きく育てる事という子孫繁栄戦略を本質的なものとして持っており、男性のように数多く産ませるという子孫繁栄戦略とは逆の方向を向くことになる。

育児にお金がかかるだけでなく、将来が具体的に見えない不安も現れているのではないか

女性の子孫繁栄戦略は、妊娠というリスクを極限まで減らしながら、あらん限りのリソースを限界まで我が子に投資するすることでリターンを極大化することである。そのためには、子供はできるだけ少なく、しかもただ育てば良いということではなく、社会の勝ち組としてポジションを確立し、孫世代以降の子孫繁栄を確固たるものにするという行動原理に基づいた子育てをするようになる。

したがって「400万円あれば生活できる」とか「800万円でも子育ては無理」という絶対額の議論に意味はない。我が子を勝ち組にするためには「過半数の人より多くのお金が必要」という相対的な尺度で判断されることになる。

これが「将来が具体的に見えない不安」の正体である。

つまり、子育て支援と称して「保育料の無料化」とか「育児支援制度」などなど、様々な制度ができることはある程度の負担緩和につながるものの、本質的な解決にはならないのだ。本質的な解決には「我が子だけ保育料の無料化」とか「我が子だけの育児支援制度」という「我が子が勝ち組になるため」のを必要としているからだ。

「妻と夫の意識の差」というのは女性と男性の子孫繁栄の戦略の差であり、我が子に投資をするためのリソース供給源として「妻は夫を子育てで頼りになる存在」という話なのだ。

しかし、今どきこういう話をすると「男女の性役割の固定だ」「男女差別だ」と騒ぎ立てる人がいるのでこういう議論自体が難しくなっていることだろう。

セクハラを防ぐためにオフレコ取材は温泉や銭湯で行うべき

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セクハラはしてはいけない。こんなの当たり前。
でも、これって心の何処かで「セクハラは男性が女性にするもの」っていうベースがどこかにあるんじゃないかと思ったり。

麻生太郎財務大臣

だったらすぐに男の番(記者)に替えればいいだけじゃないか。なあそうだろ?

と言ったと書いてある。
男性なら割と普通に思いつく発想なのではないだろうか。女性に危害が及ぶような現場に出さないほうがいい、と。

男性であろうと女性であろうと、記者としての仕事に真剣に取り組みたい。セクハラが嫌なら男の記者に替えればいいという論理では、女性記者が活動する場は制限される。

 これもまた当然の話しである。女性だからといって活動する場が制限されていい訳がない。
とはいえ、男性からすると「戦争は危ないから女性や子供は行かないほうがいい」とか「港湾運送や土木作業は大変だから女性には向かない」と思うだろう。
これを「心遣い」と受け取るか「差別」と受け取るかは女性次第であり、男性はその良し悪しをコントロール出来ないのだ。セクハラも同様で、セクハラは何をしたかが問題ではなく、相手がどう感じたかが問題だ、とよく言われる。この流れが先鋭化したものの一つに「痴漢(冤罪)問題」がある。これもまた、事実とは無関係に「この人痴漢です」と女性が男性を訴えれば、事実上これで終結する。だからこそ冤罪問題も発生する。悪いのは痴漢をする人だ、といえば聞こえはいいが、現実には痴漢は簡単にはなくならないだろう。だからこそ「女性専用車両」というものが出来た。
記事中で引用されている小島慶子のツイートに

私は、今回の件で「では女性を現場に出すのはやめよう」「女性の取材を受けるのはやめよう」となることを心配しています。それは女性記者は記者である前に性的な存在であるという眼差しを強化するだけです。

 とある。
しかし男性からしたらセクハラを避けるためには「女性の取材を受けるのはやめよう」とするだろう。女性記者は記者である前に女性であるという事実から目をそむけることは出来ないし、セクハラという概念が自分の行為によるものではなく相手の感情によるものである以上、セクハラを自律的に避けることは困難だからである。
セクハラという概念はある意味「悪魔の証明」に似たものであり、やってないことの証明を相手に委ねるしか無いのに、その証明ができない以上はやったことになるというものだからである。

財務省事務次官という公的な立場に置かれ、更にそれなりの権限を持ってる人間であれば不要なトラブルは確実に避けたいと考えるだろう。となれば「女性記者の取材お断り」ということも十分考えられるのだ。
もし女性官僚が「セクハラされる恐れがあるため男性記者の取材お断り」って言ったらどうなるだろうか。おそらく多数の男性が差別だと思いつつ、女性をセクハラから護るためには仕方がない、と考えるだろう。それはトイレや更衣室、温泉や銭湯などが男女別になっていることと同じであると理解し、官僚である前に女性である、ということを尊重した結果だと考えるからである。

4月4日、福田氏から呼び出され、取材のため飲食をした際にもセクハラ発言があったため、途中から録音を始めた。

 つまり、男性官僚側が呼び出す際は飲食ではなく温泉や銭湯で行えばよい。そうすれば「女性記者お断り」と異性を意識的に排除する必要もなく、ほぼ裸になるので録音する機材やメモ帳の類を持ち込むことも難しくなるし、持ち込めばすぐに分かるので信頼関係を壊すこともない。もちろん女性官僚側が取材を受ける場合も同様である。

地方の一軒家より東京の3畳ワンルームが示す「住みよさ」「所有」の無意味さと「新・借景」の価値

都心の3畳ワンルーム物件が人気になる理由はいろいろとあるだろうが、おそらく大きな要素は2つあると思われる。
1つはモノより時間が大事な時代になっているので少しでも利便性の高い場所に住むことの価値が高まっているであろうということ。
もう1つは、社会インフラやサービス産業が充実したことでモノを所有する必要がなくなってきたこと、そのかわりになる公共サービスや民間サービスが充実している場所に住めば良いと考えるようになったことだと思われる。

都心に位置していますから、周辺には様々な店舗が深夜まで営業しています。台所もリビングもいりません。食事は健康に気を使ったメニューが豊富な飲食店へ行き、コーヒーを飲みながら読書を楽しむなら近所のカフェを訪れるという具合です。

 かくしてこういう価値観になっていくのはある意味自明であろう。もっとも、こういう生活をせざるを得ないという事情も多分に含まれているとは思われるが、独身者ならこれで十分。いやむしろ、結婚や子育てを諦めている層なら尚更こういう生活にシフトしていくことが金銭的にも時間的にもメリットが得られるだろう。

こういう事を考えると、ちょっと考えたくなる有名なランキングがある。
 東洋経済が毎年発表している「住みよさランキング」である。
このランキングが現実的なものであるならば、ランキングのとおりに人が移動するはずであるが、現実は東京一極集中が続いている。
このランキングはいろいろな指標を組み合わせて順位をつけているが、東京の3畳ワンルームに人が集まる状況を考えると「住みよさ」という指標がすでに現実と合っていないのではないだろうか。
具体的に言えば「住宅延べ床面積」や「持ち家世帯比率」なんて大して意味がないということである。昔はモノを自分で所有する必要があったため、家も広くなければならなかったし、そういう価値観だった。でも今はモノに対する所有欲もなくなり、ソフト化が進んだ現代ではハードが陳腐化するスピードが早く、モノを持ち続ける意味がなくなってきているのだろう。そうなれば広い家はあまり意味を持たず、むしろ、最新のサービスをいかにすばやく手軽に享受できる環境に身を置くかが重要だということなのだ。
日本の文化に「借景」というものがある。庭の外の山や風景をわが家の庭の風景に取り込んで庭造りをするものだ。都心の3畳ワンルーム物件は、自前の庭はほぼゼロだけど庭の外には充実した公共サービスや民間サービスという非常に美しい風景が広がっているということだ。つまり「住みよさランキング」でいう「安心度」「利便度」「快適度」では全く測れていない公共交通機関の充実度や民間サービスの先端性、市民の文化水準、しがらみの強さ、自己実現度などが「住みよさ」以上に人口動態に大きく関わっているということだろう。

東京の唯一の弱点と言ってもいいであろう「通勤時間の長さ」をこれで克服できれば、都心の充実したサービスが受け放題、というのなら「住みよさ」や「所有」にこだわることは無意味な時代が来たということなのだろう。

言い方を変えれば、東京は若者や貧乏人に優しい街だということだろう。
地方では若者は自己実現もままならず、年寄りにこき使われ、意見も通らず、稼ぎが東京より少ないのに家賃は都市部とそれほど変わらず、それでいて地方は公共サービスや民間サービスは貧弱なので、借りるべき風景がないので経済的にもサービス的にも貧しい生活を強いられるのだ。

夫婦の姓変更は人間版ARPテーブルと氏名レジストラで。

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クレジットカード、銀行のカード、証券も全部やり直しです。株式の名義変更には、300万円かかりました。後で会社の経理から「名義変更、すごいお金かかりました」と言われて、「ごめん、興味本位だったんだ……」と。

 これらは一過性のものですが、その後も常にコストがかかり続けています。海外出張でホテルや航空券をとってもらう時も、「青野」だとパスポートの姓と異なるから、マイレージもつかない。海外でホテルに泊まり損ねたこともありました。

 姓の変更は「不便」とか「面倒」っていうわかりにくい形での不利益は大抵の人が実感しているところだと思うけど、名義変更で経費がかかる、お金が出ていくとなるとこれはもう実害に近いのかも。

で、こんなことが起きる一番の理由は、個人管理するためのデータの主キーに名前を使っているからなのでは?


だったら、インターネットの仕組みみたいにレイヤーで分けて、L2=MACアドレス=人の遺伝子、L3=IPアドレス=マイナンバーのような管理番号、L7=人の名前=ドメインネーム、っていうように分ければいいんじゃないだろうか、なんて思ったり。

出生届を出すときに、子供の遺伝子を採取して管理番号と紐付けする。人間版ARPテーブルのような感じ。

それと同時に、管理と名前を紐付け。こっちはドメインレジストラみたいな感じ。
これで遺伝子と管理番号と名前が紐づけされる。
あとは、クレジットカードだろうが株券だろうが、すべての財産は名前ではなく管理番号で管理登録すれば結婚して名前が変わろうが、何一つ不自由がなくなるのではないだろうか。

いや、株券の名義変更にお金がかかるほどのお金持ちはそもそも財産を補足されたくないからそんな制度自体受け入れがたいか…うーむ。

でも、管理番号自体を名刺に書いて配ったり、仕事で使うためのメールやSNSで公開するとかすれば、転職したり異動になったりしても個人の追跡が容易なわけで、人脈を途絶えさせないツールだと思えば便利だろうし、逆に人生をリセットしたいときは、役所に管理番号の変更を届け出て、後は必要だと思う財産やサービスの管理だけそれぞれ管理番号の変更手続きをすれば、その苦労は今と同じなので悪くなることはないはず。

これに近いことはすでに「車のナンバープレート」でもやっているわけで、そんなに面倒な仕組みではないと思うんだけどなぁ。

ま、これは夫婦別姓ではなく夫婦の姓を変更しても大丈夫なようにする仕組みなので、夫婦別姓を積極的に進めたい立場の人は嫌がるかな。

我が子も「リセマラ」して「課金」しないと勝てない?

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私は赤ちゃんの家族に食道閉鎖の説明をし、手術承諾書をもらおうとしました。ところが、家族は手術を拒否しました。

 不謹慎だとは思いますが、これを見てまっさきに思ったのが、この家族は「我が子」というキャラをリセマラして作り直したかったのではないか、ということ。

やがて、家族は面会にも姿を現さなくなりました。

 失敗を一つでもしたら、幸せというレールから外れてしまう恐怖と戦わざるをえない日本の社会。五体満足に生まれるのは当たり前、見た目も美しくスタイルよく、潜在能力も優れていてようやくスタートラインに立てる。その上で、親が我が子にどれだけ「重課金」できるかである程度勝負がつく。もちろんそれ以外の要素もあるだろうが、親の能力が高いほど経済力もある、というのが定説となっている。つまり、重課金に耐えられる親は必然的に能力も高いので、子育てという名のゲームをより有利にすすめることができるということになる。

たとえば、障害とともに生きている子どもとか、先天性の病気を治して生きている子どもやその親たちを実際に見てもらえば、赤ちゃんの家族も手術を受けさせる気になったのではないか。

 一流企業で働いて持ち家に住んでいるような人を見せれば手術を受けさせる気になったかもしれない。でもそんな人がいるのか。その辺にゴロゴロ居ますよ、っていうぐらい沢山の人が居ないとこの家族は納得しないような気がする。だって我が子をスマホゲーのキャラと同じ扱いにしているんだから。