「流通させない権利」に抗う日本人

ガラパゴスリモコン」の終焉〜ブルーレイディスクレコーダーはそもそもアメリカで売ってない - 新清士

http://blogos.com/article/36824/
一方で、アメリカのブルーレイディスクレコーダーのボタンはどうなっているのか、気になっている方も多いと思う。実は、ブルーレイディスクに書き出して、自分のものとして保存するという文化そのものがアメリカにはない。そのため、そもそもそうした製品がない。

この手の話は、MOが普及し始まったときも言われたし、CD-Rが普及し始まったときも言われてたし、DVDレコーダーが普及し始まったときも言われてた。こんな話は今に始まった話ではない。
20世紀末にはすでに「日本だけの現象」「文化の違い」なんていう風に言われていた。

MOが売れるのは日本だけ。CD-Rが売れるのは日本だけ。DVDレコーダーが売れるのは日本だけ。
とにかく「記録媒体やレコーダーが売れるのは日本だけ」という話が何度も出ては消えていった。

映像コンテンツにしても、アメリカではケーブルテレビが普及していて、同じコンテンツを何度も何度も放送するから保存して手元においておく文化なんてないのだ、と。

手元に残す文化がないからオンデマンド配信に簡単に進化できた、とも言えるのではないだろうか。
ここにアメリカの合理性が加わり、動画配信はYouTUBE、Huluと普及してきたのではなかろうか。
インターネットラジオ音楽配信電子書籍など、盛り上がりの差はあれ、かなりのインパクトをもって普及を始めた。
(最近電子書籍はちょっと怪しくなって来てる?)

ユーザーが、いつでもほしい番組を見ることができると保証されることに慣れ、コンテンツを手元に所有する必要性がないと考えるようになると、環境は激変するだろう。

この手の話はいろいろ議論が長引くんだけど、行き着くところはココ。

日本の場合、本にしてもCDにしてもビデオにしても、とにかくすぐに絶版、販売終了になる。
コンテンツ販売をする側に「流通させる権利」があるのは当然の話なのだが、これが「流通させない権利」に転じてしまうと消費者はどうしようもない。再販制度に守られているようなコンテンツまで流通しなくなってしまう現状から考えても「ユーザーが、いつでもほしい番組を見ることができると保証されること」なんて到底起こりえないだろう。

簡単操作で、コンテンツそのものが見ることができればいいや、という人にとっては、何年かで、必ず、ぶっ壊れる運命にあるハードディスクといった物理メディアを後生大事に持っている方がリスクへと変わる。

この感覚は日本人にはなじみにくいだろう。日本人はモノを大事にし、丁寧に扱う事を小さい頃から教わって大人になる。アメリカのなんでも使い捨てる文化には抵抗を感じる人も多いだろう。そしてもう一つ。日本は「わび・さび」の文化がある。古いものを大事にする文化だ。映像だって昔撮った8mmフィルムをVHSに、VHSをDVDに、DVDをブルーレイやHDDに、一生懸命丁寧にコンバートして保管している人も多いだろう。お気に入りの音楽だってレコード盤やテープをCD-Rに記録したり、MP3化したりしているだろう。
今流行のクラウド化だってそうだ。
DropboxEvernoteは確かに便利だが、放り込んだデータをずっと任せておけると日本人は思うだろうか。クラウドサービスを提供している会社の寿命とブルーレイやDVDなどの媒体の寿命。どっちが長いと考えるだろうか。
インターネット検索の魁となったヤフーや帝国といわれたマイクロソフトですら、全盛期を過ぎた感は否めない。もちろんほとんどの人はこれらの企業の創生期を知る人は少ないだろうし、多くの人が知ることになるのは1995年以降のことだろう。それを考えると、一般的な人の感覚からすると、ヤフーやマイクロソフトはサービス開始してから20年たっていない、と考えてしまうのである。
なーんだ、CDより寿命が短いんだね、と思うだろう。レコードの方が長持ちだね、と思うかもしれないぐらいのものなのだ。
写真はその際たるものだ。
これだけデジカメが普及して、デジタル化の環境が整っているにもかかわらず、撮った写真をクラウドに預けて一安心、と思っている人はどのぐらいいるだろうか。プリントはしないまでもHDDや記録媒体に保存しているのではないだろうか。それもこれも子どもや孫に見せたい、と思える思い出の写真だからこそ手元に置いておきたいと思うのだ。
東日本大震災津波で何もかも流された被災地でも、アルバムを掘り起こしては持ち主の元に返そうと言う動きが多数見られた。一見すると「こんなことがあるからこそクラウドだ」と思うかもしれない。しかし、これほどの大規模な震災が起こる確率と、クラウドサービスが存続できなくなる確率を考えてみよう。きっとクラウドサービスが存続できなくなる確率の方が高いはずだ。
「流通させない権利」をわざわざ他人にあげちゃうことはない。自分のことは自分でやる。これが日本の文化だと思う。
もっとも、リモコンがどうしようもない位ダメなのはすごく同意できる。おれに設計させろ、といいたくなるぐらい酷い。

労働市場が流動化すると若者の就職離れが起きる

企業が女性を雇わないわけ

http://jyoshige.livedoor.biz/archives/5252336.html
少子化の最大の原因は、日本型雇用そのものにある。
(中略)
要するに、勤続年数に穴の空く女性を排除→出産の機会費用が高騰→少子化促進という流れだ。
これを避けるには、積み上げ式ではない職務給をベースとした流動的な労働市場に移行するしかない。
それなら、企業は女性を排除する理由は無くなるし、一度退職しても再就職のハードルも下がる。

労働環境労働市場に冠するこの手の主張は基本的に正しいんだろうけど、その条件は「求人数が十分あって労働者の売り手市場になっていること」が前提だろう。求人が十分にないと「誰かが就職した分、誰かが失業する」のだ。求人数が求職者数を下回れば、労働市場はいすとりゲームになる。こうなると就職口と言う一度掴んだ椅子は手放したくないのが心情だ。なぜなら、次回のいすとりゲームは前回より厳しいからだ。かくして、労働市場流動性は失われていくのだ。
経営層が移民を欲しがるのもこういうことだろう。労働者の売り手市場になると賃金が上がるばかりでなく、会社に定着もしなくなる。経営側はそれでは困るだろう。従業員が低賃金で会社にしがみついてもらわなければならないのだから。

一方、恋愛市場はどうなっているか。もうすでに「職務給をベースとした流動的な市場」になっているのではないだろうか。

若者の恋愛離れはネットやゲームなどの仮想現実の影響と大学教授

http://www.yukawanet.com/archives/4126564.html
森川教授によると最近の若者は恋愛があまりに難しく、いわゆるイケメンや美人しか成功しないのではないかと、勝手に思い込んでしまい、恋愛に対する意欲が薄れているのではないかと述べている。

思いこみもないことはないだろうが、イケメンや美人ではない大多数の一般人は上に書いた「労働市場のいすとりゲーム」と同じ状態に巻き込まれているのだ。

結婚相手に平均、平凡、平穏を求める三平女子や圏外婚が増加

http://www.news-postseven.com/archives/20120303_92336.html
彼女たちが求めているのは、安心と安定でした。平均的な年収で、平凡な外見で、平穏な性格、つまり“三平”の男性がいいという女性が増えているんです。

恋愛市場は求める相手に年齢や年収など一定の枠があるため、カップルが成立すればするほど座れる椅子が減っていく一方の市場である。つまり、求人倍率が1を超える事はほとんどなく、時間が経てば経つほど椅子が減っていく市場なのだ。
冒頭の記事で言っている「積み上げ式ではない職務給をベースとした流動的な労働市場」に現在の雇用情勢のまま移行した場合の事象そのものなのだ。

で、現実にはどうか。

http://www.yukawanet.com/archives/4126564.html
皆さんはガールフレンドが居ますか?もしいないとすればそれは病気です、という斬新なキャッチコピーから文面が始まっていた。

男性の恋愛に対する意欲不足があたかも病気であるかのようなキャッチコピーが出ていますが、これになぞらえれば「皆さんは就職先がありますか?もしないとすればそれは病気です」ということになるだろう。

まぁ、キャッチコピーごときに目くじらを立ててもしょうがないのですが、恋愛に対する意欲不足が病気として見られてしまう事に違和感を感じるのはこういうことでしょう。「就職先がないのは努力不足なのか?いいえ、病気だからです。」で通るわけがない。

http://www.yukawanet.com/archives/4126564.html
挙句の果て、ネットやゲームなどのいわゆる仮想現実の世界に逃避し、現実と区別できなくなってしまっているのではないかと話す。コレは一種の病気ではないかと警鐘を鳴らしている。

区別がついていない奴なんてごくわずかでしょう。ほとんどの人は区別がついている。ガールフレンドがいる男性だってネットやゲームで遊ぶだろう。
でも、恋愛市場と言う現実の世界に椅子は余っていない。仮想の世界なら椅子が無限にあるから、椅子に座っている気分を気楽に味わう事ができる、と言う程度のことだろう。

しかし、現実は労働市場と同じように時が経てば経つほど椅子が減っていく。
一番有利な初回のいすとりゲームに敗れた男性が、2回目、3回目と回を重ねたら勝てるようになるだろうか。

相対基準でなく、絶対基準で採用すべし

http://www.newair.co.jp/services/human/mentore/method.html
優れた会社の多くは、絶対基準による採用を導入しています。未来を託す人材の採用に、決して妥協はしないという一貫した姿勢です。たとえ、採用予定人数に満たなくても、絶対基準に満たない人を採用することはありません。

まさにこれ。
恋愛市場で女性はこの感覚で男性を「採用」しているのです。
失業したり退職したりして稼げなくなった男性が「クビ」になるのもこういうことでしょう。

つまり、労働市場が流動化すると、恋愛市場と同じように就職版「草食男子」が現れるようになり、就職そのものに消極的になる人が増えるのである。そして、それはすでに存在する。ニートってやつだ。

逆に恋愛市場で男性から「処女信仰」「ビッチはダメ」な声が根強く聞こえたり、女性が求める条件提示を「上から目線」と感じる男性が多いのは「流動化」の否定なのだ。

流動化された恋愛市場の強者は、いすとりゲームで複数の椅子をゲットできる反面、弱者はより一層椅子獲得が困難になる。複数の椅子をゲットできた強者は労働市場にありがちな「お前の代わりはいくらでもいる」「嫌ならやめろ」という脅しに恋愛市場でも屈する事がなくなるのだ。これにより「上から目線」を排除し、自分の要求を突きつけることが出来るようになるのだ。でも、ここまで出来る人はほんの一握りだろう。大半の人はそこまで強く出られないだろう。
つまり、若者の恋愛離れ、晩婚化を食いとめようと思ったら「流動性を抑える」のが良いと言うことになる。

http://jyoshige.livedoor.biz/archives/5252336.html
たまに「女性が社会進出したから少子化になったのだ」という女っけの無さげな意見をいう人もいるが、そういうのは40年くらい前の保守派の意見で、女性の能力活用無くして経済成長はあり得ない。そもそも今さら戦前みたいな男尊女卑社会に戻れるわけないだろう。

その極端な例がこういう声だろうし、「処女信仰」「ビッチはダメ」という声につながっていくのだろう。
恋愛市場に関しては過当競争になってしまった結果の「恋愛離れ」であり、恋愛市場での競争を放棄したのが「草食男子」なのだろう。

留年や単位制より、卒業検定制にしたら?

留年させるなら先輩後輩カルチャーも止めるべきでは?

http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2012/02/post-403.php
確かに、今の日本の小中学校では、何らかの理由で全休しても卒業証書が出るという運用がされており、結果的に学力不足のまま高校へ行ってしまう子供が存在するのは防げないわけです。高校の「底辺校」では「6桁の数字が読めない」などという衝撃的なレポートもあるわけで、結果的には高校を中退することで貧困層を生み出しているとも言えるわけです。

そもそも論として
「結果的に学力不足のまま高校へ行ってしまう子供が存在するのは防げない」
と言うことに何の疑問も持たないところからおかしいわけで…

高校は義務教育ではないのに、あたかも全入するのが当たり前みたいなことになっていることに誰も突っ込まないのはなぜなんだろうか。
ちゃんと入試をやって、学力が足りない奴は落とす。「15の春を泣かせるな」なんて「運動会で仲良く一等賞」並に滑稽なことだと言うことに気が付かないのだろうか。
中学生のうちから受験戦争に巻き込むなんて…と、親の自己保身のために子どもに情けをかける振りをするから

「平均」の意味、大学生の24%が理解せず

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120224-OYT1T00931.htm
「偶数と奇数を足すとなぜ奇数になるか」を論理的に説明させる中3レベルの問題の正答率は19%。小6で学ぶ「平均」についても、求め方は分かるが、「平均より身長が高い生徒と低い生徒は同じ数いる」などの正誤については誤答が目立ち、中堅私大では半数が誤答だった。

こういう大学生が出来てしまうのだ。
みんな分かっているはずだ。大学に入学する目的が、勉強して教養を身につけることではなくて、大卒と言う肩書きが欲しいだけなんだ、と。
何十年も前から問題視されているのに、親の自己保身とわが子かわいさという観点から誰も変えようとしなかった。わが子が大学を卒業するまではこの仕組みが変わってほしくない…親にはこんな感覚が心の底にあったのではなかろうか。

http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2012/02/post-403.php
日本の場合に小中での留年や再履修を実施する場合に条件が一つあります。それは、日本の中学校以上の社会にある「先輩後輩カルチャー」というのを、これを機会に根絶するべきだということです。

先輩には「ですます調」で話し、後輩には「だ、である調」を基調とした権威的な話法で通す、下から上への「異議」は認めない、「先輩」の自尊心は守られ「後輩」は自尊心上の譲歩を強いられるという「無意味なヒエラルキー」を根絶するのです。

私もこれには同意。
年長者と言うだけで「逆転する事が不可能な絶対的立場が上」というポジションが自動的に転がり込んでくるシステムは非常に良くない。
「若造の癖に生意気だ」という何の根拠もないジャイアニズムが若い世代からするといかにうっとうしいものであるか、そして若者の活力を削いでいるか。ただ歳を食っただけの年寄りは努力した若者に負けるのは必然、という当たり前のことが教育現場に入り込む意味は大きいだろう。

大阪と比べて「東京はぬるい」という印象を持つとしたらそれは違うと思います。そうではなくて、「先輩後輩カルチャー」は高校生になるとほぼ100%子供たちの心理を支配しているので、本当に「後輩と一緒は無理」という子が多いと見るべきです。どちらも、中退者イコール貧困化という「戦い」の中で必死である中から出てきた案なのだと思います。

大阪流も東京流も一長一短だろう。言いたいことは分かるし概ね同意できるところである。
しかし、ここでも冒頭に書いた
「結果的に学力不足のまま高校へ行ってしまう子供が存在するのは防げない」
ことを無視して話が進んでいるのでなんとも間抜けな話に見えてしまう。
中退者が出る事を防ぐ事はできないだろうが、それ以前に高校の授業についていくことが困難であろう生徒が入学出来てしまうことが問題なのではないだろうか。
その結果、収入が大卒や高卒より少なくなると言うことはある程度許容しなければならないのではないだろうか。それが「能力に応じた報酬」という事なのではないだろうか?
高校に入学しながら中退してしまうまでの時間で、仕事をしながら能力を身につけた方がより良い場合もあるだろう。

もう一つは、その人間の能力を評価し、そこに年齢での上下関係を持ち込まないとうことです。飛び級で大学の物理の授業を受けに来た高校生を、大学生はパーソナルな人間関係でも仲間として迎え入れねばならないし、その高校生に明らかに卓越した才能があれば、大学生は素直に賞賛すべきなのです。逆に文字式の意味が分からなくて中2なのに1年生の数学を受け直している子は、中1の出来る子に丁寧に教えを請えばいいのです。

これを実現するためには、いっそのこと卒業検定制にしてはどうだろうか?
もちろん学校と言うところは勉強だけ出来れば良いと言うものではない。
自動車の運転免許取得に対する自動車学校の学科試験と実技試験のように、勉強の分野は運転免許の「学科」のように免許センターのようなところで検定試験を随時行い「中学学科合格」「高校学科合格」を出せばよいだろう。一発勝負の受験技術競争になってしまうという心配がある場合は「第一段階」「第二段階」のように何回か受験して合格しないと「学科合格」出来ないような仕組みにしても良いだろう。
体育や音楽のようなその他の教科や集団行動、課外活動などは運転免許の「実技」のように最低活動時間200時間などと決めて、学校が「中学実技合格」「高校実技合格」を出すという形にし、両方揃って初めて「中卒」「高卒」扱いにすればよいだろう。
これなら学年や単位と言う概念がなくなるので、力のある子は飛び級も出来るし、力のない子は力が付くまで留まっても屈辱的な思いは少ないだろう。
もっとも、個人的には屈辱的な思いをする事も大事な事だと思っているので、先輩が後輩に勉強を教えてもらうと言うことを経験するのも、力のない子には必要なのではないかと思っている。要するに、人は平等ではない、格差は厳然と存在する、と言うことを身を持って知る必要がある、と。

さらにこの方法だと卒業が春に固定される事もなくなるので、

記者の目:東京大の学部生秋入学移行=木村健二(社会部)

http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20120222k0000m070133000c.html
入学時期の在り方を見直してきた東大の懇談会は、1月20日に中間報告を公表した。その中で秋入学移行の利点について(1)国際標準(秋入学)に合わせ留学生の出し入れを容易にし、国際化に対応する(2)入試時期は現行通りとし、入学や卒業の前後に生じる隙間(すきま)の期間「ギャップターム」(GT)で学生に多様な経験を積ませる−−を挙げた。

いつでも卒業が出来るので、国際標準という謎の標準に合わせるまでもなく、自動的に全世界何処からでも何時でも受け入れが可能になる。結果、隙間と言う概念もなくなるので、こんな悩みもなくなってしまうのだ。
大学は基本的に単位制だ。通年入学とまでは行かないだろうが、四半期ごとに入学と卒業を同時に行うようなスタイルでもなんら問題はないだろう。単位が積みあがれば卒業と言うシステムなのだから。

企業が通年採用をしている事を考えれば、大学卒業から就職と言う流れにもまったく問題なく対応できるだろうし、特定の期間に就職・採用活動が集中する事もないので、就職活動する学生も楽になるし、採用する企業側も楽になるだろう。

日本のメーカーは消費者の声を聞きすぎだ

日本の家電各社が「ルンバ」を作れない理由 国内製造業の弱点はそこだ!!

http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120211/wec12021118000001-n1.htm
 「技術はある」。パナソニックの担当者はこう強い口調で話しながらも、商品化しない理由について「100%の安全性を確保できない」と説明する。
 例えば、掃除ロボットが仏壇にぶつかり、ろうそくが倒れ、火事になる▽階段から落下し、下にいる人にあたる▽よちよち歩きの赤ちゃんの歩行を邪魔し転倒させる−などだという。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_economy/news/120211/wec12021118000001-n2.htm
パナソニックの担当者は「日本企業は完璧(かんぺき)を求めがちだが、その過程の一部にも実はビジネスになるものがたくさんある」と指摘した上で「海外企業をみていると、ときとしてアグレッシブにやることも必要だと感じる」と本音を明かす。

確かにその通りだろう。日本では完璧を求めがちだ。訴訟リスクも高いだろう。

しかし、それは相手が日本の大企業だから、ということが多分に含まれているからなのではないだろうか。
これが海外のメーカーだったり、国内でも聞いた事もないようなメーカーだったらどうだろうか。

分かりやすい例の一つが携帯電話に付いているカメラがある。
盗撮防止と言う目的のためなんだろうが、全体のデザインをまるで無視したレンズの強調。せっかく米粒ほどに小さくなったレンズを500円玉のように大きさにまで強調したのでは何のためにレンズを小型化しているのかまるでわけが分からない。しかも、国産すべてのメーカーどれもこれも同じように強調している。
これほどまでに気を使っているのに、海外からアップルのiPhoneをはじめ、スマートフォンが入ってきたらどうだろうか。あの化け物のようにカメラのレンズを強調したデザインになっているスマートフォンは皆無である。その後出てきた国産機も然り。誰かが殻を破ったあとでないと日本のメーカーは安心して製品を世に出す事ができなくなっている。

このての話は何もリスク回避のための技術ばかりではない。100点満点の製品を10万円で売ろうとばかりしていて、80点の製品を3万円で売り、市場を制圧してしまおうという意気込みに乏しい。わざと市場をシェアしているのではないかと思うぐらい中途半端なのだ。

気がついてみれば電化製品はアイロボットのルンバだけでなく、ダイソンの掃除機やら、その他中国や韓国メーカーが目立つようになってきた。中韓の製品は100点満点で10万円の製品は少ないが、80点だけど3万円ならこれでいいや、と思わせるものが多くなって来ている。

特にソフトウェアが絡むものは、100点満点にしてから製品として世に送り出すというやり方では、製品価格も高くなるだけでなく、タイムリーな製品販売をする事が出来ない。80点の状態で世に送り出し、残りの20点分は後からソフトのバージョンアップで対応するというやり方で、価格を安くし、タイムリーな製品を市場に投入していかなければ、勝ち目はますます減っていくだろう。

日本のメーカーはあまりにも消費者の声を聞きすぎているのではないだろうか?
悪評は高いかもしれないが、アップルをはじめ、サポートは一定水準の範囲内に留めている事が多い。

無駄な機能と無駄なサポートを価格に転嫁することを良しとする考えは捨てなければならないだろうし、安い製品を買ったお客へのサポートはそれなりに、という事を理解させていく必要があるのではないだろうか。

昭和の石油ショック、平成の福祉ショック。

橋下市長個人にではなく〈橋下的なもの〉に感じる違和感。本当に必要なのはリダンダンシーのある社会ではないか

http://diamond.jp/articles/-/15769
同じような行政サービスは二ついらない、それは税金の無駄だと考えるのが現代の風潮です。しかし、場合によっては、同じようなものが重複していることも、大切なことではないかと思うのです。

大切なことだと言うのは分かる。
が、それを支えるのは税金であり、税金の元となる納税者の力。

ところが「高齢者は弱者である」「弱者はすべてに優先して保護しなければならない」と考えるのが昭和の発想だった。
当時高齢者だった人には子供がたくさんいて、支える側の人的リソースも金銭的リソースも時間的リソースも潤沢だった。湯水のごとくリソースを消費しても問題が出なかった。
昭和の高度成長期に「石油ショック」と言うものがあった。それまで日本人は無頓着に石油を使っていたが意識が変わった。需給が逼迫し、価格も高騰した。金さえ出せばいくらでも手に入ると言う代物ではない、限りある資源を有効に使わなければならない、ということに気が付いた。

いまは少子高齢化社会であり人口減少社会である。この事実は小学生でも知っていよう。つまり、支える側の人的リソースも金銭的リソースも時間的リソースも間違いなく減っていく、と言うことである。
そこを無視して行政サービスを冗長化しろと言うのは、石油ショックの時代に「もっと石油を湯水のごとく使わせろ」「必要なんだから産油国は供給するのが当然だ」といってるようなものだ。

この手の物言いの人に共通する点がある。
それは、人的リソースや金銭的リソース、時間的リソースというものは何処からか無尽蔵に沸いて出てきて自由に使えるものだと思っているところである。しかも自分はそれらのリソースを自由に使う需要側の視点に立ち、リソースを提供する供給側の視点に立たないから始末が悪い。

東日本大震災の影響で全国の原発が運転を停止している。国や東電の電力需要予測も眉唾な面は否めないが、国内の最大電力供給量が減ったことは間違いないだろう。需要に対し供給が不足すれば価格が上がるのは経済の基本。
リダンダンシーが必要だと言う香山氏なら「原発を再開しろ。電力供給にはリダンダンシーが必要だ。」とか「石油だけじゃなく天然ガスも輸入しろ。資源の確保にはリダンダンシーが必要だ。」と言ってくれるだろう。
一時しのぎならそれでも良いかもしれない。石油は資源であり商品でもある。不足すれば価格が高騰し入手困難になる。そこに政治力や感情が入り込む余地は少ない。
しかし、税金や福祉といった政治の世界はそうではない。一度確保した利権は手放さない。たとえ若者が無職になり、生活に困窮し、税金をまともに納められなくなったとしても、お年寄りのために人的リソースや金銭的リソース、時間的リソースを注がなければならない。

「物事を何でも極端に白黒にわけて、黒はダメと一刀両断に切り捨ててしまう」
「自分に対する反対意見を徹底的に論破して否定し、多様性を認めようとしない」

「切捨てはダメ」という発想があるから、職に就けない若者のような「新しい弱者」を認めようとしない。認めればお年寄りなどの「古い弱者」を切り捨てることになり「切捨てはダメ」という自らの主張と矛盾する。その矛盾を回避しようとすれば「どちらも弱者」と認めるしかなくなる。
そのためには「多様性を認める」必要がある、と言う論法だ。

しかし、こんなことを続けていたらどうなるか。
最終的には「一億総弱者」と言うことになり、支える人がいなくなるのだ。
そこに目が向かないのは支える側の人的リソースや金銭的リソース、時間的リソースは自然に沸いて出てくるものであり、その源泉は「支え合い」「絆」「共同体」という想像の世界のものである。
まさか、どこかの資本家や大金持ちが慈悲の心をもってそれらのリソースを提供してくれる、とは思っていまい。
もちろん、こういう考え方は大事ではあるが、これでお腹が一杯になるわけではないのだ。
共産主義が豊かな生活に結びつかなかったのはいまさら語るまでもなく、そういうことなのだ。

日本が豊かになったのは、アメリカの庇護があったとかいろいろな理由はあるだろう。しかし、それとは別に日本人には「自分の飯ぐらいは自分で稼ぐ」「働かざる者食うべからず」「施しを受けるのは恥だ」という精神がある。生活保護をもらえる立場にあるお年寄りが生活保護を拒否すると言うのはそういう精神があるからなのだ。この気力こそが「支える」精神であり、人的リソースや金銭的リソース、時間的リソースの源泉なのだ。

誰かが資源を生み出して初めて資源をを使う事ができる。

消費税の増税議論も
「資源が必要だから誰か出せ」
といってるから納得する人が少ないのだ。

そして、その必要な資源を提供するのは他でもなく、若者なのだ。

橋下徹 若者優遇政策を熱く語る

http://nikkan-spa.jp/136261
僕は大阪市役所の首長で、それ(年金など社会保障制度改革)をやるのは国会議員です。ある一定の環境を整えても若者が政治に参加しないのだったら、「若者に不利な制度ばかりでもそれは仕方がない」という話。最後は自己責任になると僕は思っていますけれども、大阪市長として、若者が参加する気になってもらえるような仕組みを少しでもつくれたらと思っています。

だからこそ、橋下市長は若者優遇を語るのだ。
将来に投資をしないで回収ばかり考える。
供給サイドではなく需要サイドの都合ばかりでお金の使い道が決まる。そんな大阪ではまずい、と言う声が橋下市長を支えているのだ。

税金や年金、福祉少子高齢化など日本が抱える問題の多くは供給サイドではなく需要サイドに都合が悪いから問題とされている。
年金の未払いなどは供給サイドのささやかな抵抗なのだ。

石油ショック後、日本は省エネ技術を磨き、さまざまな製品を生み出した。
そしていま、福祉ショックと呼んでも良いだろう。
もっと効率の良い福祉を実現していかなければならない。
複数の政策で1つの問題点を解決するどころか、1つの政策で複数の政策を解決しろ、と言っているのだ。

もっとも、そんなことをすると天下り先が減ったり、権限がなくなってしまう偉い人がたくさんいるから、なかなかそうはならないんだけど。

「ステマ」と「韓流ごり押し」は表裏一体。笛を吹かれたら踊りたくなくなる。

ステマ”が壊す日本の未来

http://news.livedoor.com/article/detail/6194415/
インターネットは情報を能動的に仕入れるところなのだから、自己責任のもとに情報を取捨選択のうえ判断すればいいと言われればそれまでかもしれない。

インターネットだけじゃない。社会生活で流れる情報のすべてにおいて「自己責任のもとに情報を取捨選択のうえ判断すればいい」のだ。それが面倒くさい、難しい、出来ない、と言うのであれば、お金など何らかの対価を払って誰かに取捨選択してもらえばよい。
それこそが「有益な情報」と言うものであろう。

本来は消費者にとって有益な情報でさえも誤認されたうえに、理解されない事態が発生するのだ。

しかし、どんな有益な情報とはいえ、結論から言えばどんなものであっても最終的には「マネタイズ」の手段としての情報であり、なにがなんでもお金を払いたくない、と言う人にとってはどんな情報も有益ではないのだ。
逆にリスクなしで「お金あげます」なんていう有益な情報は存在しないし、あったとしても信頼されないのはこのためである。
裏を返せば、マネタイズに関係ない情報は基本的に信ずるに足りる情報であり、もし、裏切られてもリスクを負わなくてよい情報である。

食べログ問題で表面化したステルスマーケティングの脅威

http://www.mdn.co.jp/di/newstopics/21566/
グルメ情報のレビューサイトである「食べログ」(運営:カカクコム)上で、特定の飲食店に対する好意的な評価を書き入れるかわりに、その飲食店から金銭を授受するというクチコミ代行業者が存在することがわかり、問題になっている。要はヤラセである。

食べログのやらせ問題が大いに批判された理由は恐らくこんな感じであろう。

食べログと言うサイトは、食べログ運営者とそこに掲載されているお店のどちらの関係者でもない、お金を払ってお店に食べに行った人の率直な感想が掲載されている、食べログとお店のマネタイズにつながらない情報が集まっている、というものであり、利用者はそこにもっとも「有益性」を見出していたのである。
今回のやらせに限らず、食べログiPhoneアプリの有料化のときも批判をされていた。

食べログiPhoneアプリ版 一部有料化でレビュー炎上

http://www.j-cast.com/2010/09/21076424.html?p=all
「ユーザーの善意のレビューで成り立っているくせに有料?」

このときの批判と本質は同じなのだ。
ユーザーの善意、といえばなんとなくボランティア的な雰囲気にも受け取られやすいが、ユーザーの善意と言う言葉の中には「ユーザーなりに公平性をもって評価しました」という意味が含まれているのだ。

今回、たまたま食べログの件から「ステマ」という言葉が爆発的に広まったが、これはネットの特性によるものと考えた方がよいであろう。

そもそもネットと言うものはマスコミのカウンターメディアとしての立ち位置があり、その立ち位置を心地よいものとして捕らえている人が少なくない。「ネットで真実を知った」と真顔で言ってしまう人がまだまだ多いのだ。
そんな中、企業が考え出した「ステルスマーケティング」と言う秘密裏に進めるべき広告戦略をネットの住民があぶりだしたとなれば、これこそ「ネットで真実を知った」の醍醐味を地で行く展開だからである。
ニュース報道などでも「マスコミは事実だけを言えばよい」というネット住民が少なくないのはこのためであろう。それは「評価は自分たちが行うから」という考え方が浸透しており、マスコミが考える評価は「マネタイズが絡んでいる以上、きっとどこかに阿っているに違いない」「だから偏っている」と考えるのだ。

その端的な例がいわゆる「韓流ごり押し」騒動である。これも別に韓国憎しというわけでもなく、韓流スターに嫉妬しているわけでもない。
ネット住民が自己責任のもとに情報を取捨選択のうえ判断、分析した結果「韓流は特に興味なし」とか「特別すばらしいと言うわけではない」と言うような印象を持っているにもかかわらず、あたかも国民的人気になっていて、国中がこぞって韓流を推しているような情報がマスコミから一方的に流れてきているから、なんか変だ、と違和感を感じているのだ。

この二つには共通な点がある。
一つは、どちらも企業やマスコミなど、供給サイドが主導権を握って、需要サイドの情報を撹乱していること。もう一つは供給サイドが「流行っているんだから盲目的に流行に乗れ」という前時代的な発想でモノを売ろうとしていることである。

ステマ」はそれを目立たない形でやっていること。「韓流ごり押し」はそれを目立つ形でやっていること。
たったそれだけの違いで、それ以外はやっていることが同じなのだ。

笛を吹けば踊るだろう、なんていうマーケティングはやめるべきである。こんなに情報が溢れている時代だ。笛の音なんてかき消されてしまう。むしろ、そんな笛に踊らされてたまるか、とすら思われてしまうだろう。

むしろ笛を吹かずとも、消費者が利益を感じるモノ作り、商品作りをすべきであり、小手先だけのブームに頼るやり方はもはや通用しないと思った方がよい。
ドラマ「家政婦のミタ」は第1回放送前から話題沸騰で視聴率はよかったですか?
バレンタインデーに義理チョコをプレゼントする人は増えましたか?

子育ては利益を生むのか?

新人の女性社員に妊娠発覚 「休職します」と言われたが…

http://www.j-cast.com/kaisha/2012/01/06118160.html?p=all
戦力になっている中堅社員なら、復帰に期待が持てますが、入って1年も経たない社員に復帰してもらっても、次の新人を抱えた現場では足手まといになるのは目に見えています。

まぁ、これが本音だろう。
今は昔以上に「人を育てる」と言うことを嫌う企業が増えているように見える。

リスクを最小限にするには、女性社員の申し出どおり育児休業を取らせ、復職させる方がいいと思います。雇用機会均等法や育児・介護休業法は、育児休業を取得したという理由で、解雇などの不利益な取り扱いをすることを禁じています。労働基準法にも解雇制限があり、産前産後の休業期間とその後30日間は、労働者を解雇することはできません。

法律はそう定めているのだろうが、育児休業をしている人は企業になんら利益をもたらさないことは事実。大企業ならたくさんの社員の力で支えることが出来るだろうが、中小企業にはとても出来ない、と言うのが現実だ。

社会人には責任ある行動が求められるとはいえ、社会や会社のために個人が存在するわけではありません。恋愛したり結婚したり、子どもを産んだりすることが「新人のくせに」「中堅社員のくせに」「管理職のくせに」無責任などと言っていたら、誰もが会社のために一生を捧げなくてはならないことになります。それが少子化という社会的な大問題の一因になっているかもしれません。

これも、こう置き換えてみたらどうなるだろう。

企業には責任ある行動が求められるとはいえ、社会や従業員のために企業が存在するわけではありません。異動したり転勤したり、新規事業を興したりすることが「ベンチャー企業のくせに」「中小企業のくせに」「大企業のくせに」無責任などと言っていたら、企業すべてが従業員のために会社の資産を捧げなくてはならないことになります。それが解雇しやすい非正規雇用の増加という社会的な大問題の一因になっているかもしれません。


正論だろうが、こんなこと言っちゃうような企業は誰からも信頼されないだろう。

問題はここだ。

「育児休業者の代わりの人員を補充しない」といった会社都合の制度を改めるところから始めてはいかがでしょうか。

この人は、育児休業者が復帰したら代わりの人員をクビにして良いと思っているのだろうか。
それとも、そのまま雇い続けろ、とでも言うのだろうか。

企業としてはどちらも飲めないだろう。

生産年齢人口も減っている現在、意欲や能力のある人に働いてもらわなければ社会の活力は維持できません。そういう意味では、いまの日本社会で存在する限り、企業はいわゆる昭和的な家庭観、労働観を脱したやり方を選ばざるを得ないでしょう。

ここで必ず出てくるこの手の言い回し。
日本社会と言う大きな課題と個別の企業が抱える小さな課題を一緒に考えるやり方。

企業が昭和的な家庭観、労働観を脱せないのは、労働者も昭和的な家庭観、労働観を脱したくないからなのである。

非正規労働者の増加が問題だ」という意識が強いのに、その解決方法は「解雇をしやすくすることだ」と言ってるからいつまで経ってもこの問題が解決しないのだ。

この解決方法が有効なのは、正規雇用と言う名の椅子が十分に供給されていることが前提なのに、現状では正規雇用と言う名の椅子はどんどん少なくなっている。こんな中で解雇されたらたまらない、と言うのが実情なのだ。自分の椅子を守るために他人を立たせ椅子を奪う。この記事の中で書かれているのはこういうことなのだ。

これでは根本的な解決にはならない。子育てで休業中の社員を抱えている企業には、子育て中の子どもの数に応じて税金を優遇するとか、公共事業に優先的に参入できるようにするとか、企業にとって「子育ては儲かる」状況にしなければ根本的な解決はしないだろう。

昔は貧乏でも子どもが多かった、と言う人がいるがこれは正しくない。
昔は農家が多く、貧乏で子どもも多かったが、食い扶持が足りなくなったら、子どもをよその家に預けたり売ったり殺したりしていたのだから、今企業がやっている解雇となんら変わりないのだ。しかも、子どもが育てばタダで使える農作業要員になるため、多大な利益をもたらしてくれたのだ。
つまり、利益があるから子どもをたくさん作り、育てたのであり、ボランティアや社会的使命で子どもを育てたわけではないのだ。