医療批判と目くそ鼻くその厚生労働省批判

http://d.hatena.ne.jp/bewaad/20081023/p1

はてなブックマークでは厚生労働省批判が喧しくなっています。でも、厚生労働省批判というのは、たとえば墨東病院事件で墨東病院を批判するようなもので、何ら事態の改善に寄与しないどころか、かえって事態を悪化させるおそれも多分にあるもの。

つまりは医療に割くリソース削減は厚生労働省が推進してきたものでは決してなく構造改革・小さな政府路線の帰結であり、政府内で医療に割くリソース増加を主張する厚生労働省をいくら批判したところで厚生労働省のプレゼンスを低下させるのが関の山、結局はリソース削減を助長してしまいかねないのです。

医師個人や一病院を責めてもしょうがないのはたいていの人はわかっていると思う。ただ、日本の全体的な医師や病院のありかたについて、何の根拠もなく、医療に関する総元締めは厚生労働省なんだから、今の医療が悪いのは厚生労働省のやり方が悪いに違いない、って思っているだけなんじゃないかなぁ。

で、このブログ主が引用している

勿凝学問186

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare186.pdf

公的医療費を増やすということは再分配額を増やすことであり、再分配を充実させるためには、いったん政府に所得を預けるための負担を増やさざるを得ないのは当たり前である2。そしてこの国の負担は、まともな福祉政策を展開するにはあまりにも少なすぎる。日本の医療は崩壊の危機にある、いや、部分的にはすでに崩壊しているのであるが、日本の公的医療費のGDPに占める割合は、負担の割には高い。すなわち、医療は、政府から実は優遇され、大目に見てもらっているのであり、そのしわ寄せは、少子化対策への支出、労働政策への支出、教育への公的支出が極端に低いことや赤字国債の発行などにあらわれているのが現状である。

これを読んでふと思う。
いま、日本では「食の安全」というものが問われている。
中国のいわゆる「毒ギョウザ」に始まり、先日の「こんにゃくゼリー」「給食のパン」「カップヌードル」とつづいている。1つ1つの出来事の詳細はまったく別のものであるが、消費者様が望んでいるものは「100%の安全」と「1円でもより安いこと」というありえない期待を逆なでしたことに尽きると思う。
一見何のつながりもない「食の安全」と「医療批判」。
しかし、消費者様が両方に望んでいること、それが「100%の安全」と「1円でもより安いこと」だ。
100%安全で1円でもより安い食品。100%安全で1円でもより安い医療。
かつて、日本人は「安全と水はタダだと思っている」と叩かれた事がある。でも、日本人は水にお金を出すようになった。高い高いといわれるガソリンよりも高い水に。しかし、安全にはなかなかお金を出そうとはしない。なかなか報道されないが「お金持ちの中国人は自国産の食品より安全な日本産を選んでいる」と言われている。また、国産の無農薬野菜にどのぐらいお金を出してもいいですか?という質問をすると「2割増まで」という答えが返ってくるらしい。安全で高い日本産。安全性は一歩劣るが安い中国産。日本人は選択する権利がある。自由だ。しかし、食品に絶対安全はない。安全に食べられるために生まれてくる動植物など存在しない。すべて、この地球上に生まれてくる命ある動植物を人間が食らっている以上、どんなリスクが潜んでいるかわからない。
医療も同じ。人間が生き物である以上、絶対に治る医療というものは存在しない。
いま、日本人が期待しているのはブラックジャックの世界だ。
しかし、よく考えてみよう。ブラックジャックはどんな病気でも絶対に治すスーパードクター。でも、治療費は破格だ。それだけの価値がブラックジャックにはある。架空の世界とはいえ、絶対なんてものはありえないことを逆手に取った、架空ならではの世界観だ。でも、今日本人はブラックジャックに対して治療代を値切ろうとしている。値切れなかった人はにブラックジャックを「無免許だ」「治療代が法外だ」と訴えるひとまで出てきている状態だ。
日本人は、もっと基本的なものにお金を出すべきときが来たのだと思う。
それは、自分が生きていくために口にする食べ物に。自分が生きていくために受ける医療のため。
自分で農作物を作れない、自分で医療ができない、というのなら他人に頼むほかないのだ。われこそは消費者様である、と偉そうにしている場合ではない。
自分の代わりに助けてくれる人のため、その人にお金を出すべきときが来たのだと思う。
負担増=絶対反対、と脊髄反射している場合ではない。お金で解決できない時代が間違いなく目の前に来ている。
そして、その隣には、法律では解決できない時代も迫っている。
日本国憲法25条1項で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と定められている。その思想は崇高。生きていればいい、というよりは上のラインの生活ができる権利、というが、現実問題、食べ物がなくなり、医療がなくなったら健康も文化も何もなくなる。日本人が「負担増=絶対反対」という脊髄反射を繰り返しているうちに、自らの生存権を脅かす行動をしてはいないだろうか。早い話、日本人総「クレクレ君」化しているということだ。国の財源がどこからか沸いて出てくるような錯覚に陥ってるのかもしれない。サラリーマンは税金天引きで納税意識が希薄、と言われて久しいが、一向に直らない。まずはここからかも。