「仕事をさせて頂く」のに「報酬はあげさせて頂く」にならない不思議

教員の早期退職 やはり残ってほしかった

http://sankei.jp.msn.com/life/news/130125/edc13012503060000-n1.htm
 埼玉県では2月から県職員の退職手当を減額する条例が成立し、3月末に定年退職を迎える教員1297人のうち、学級担任を含む110人が1月末での退職を希望した。勤続35年以上のモデルで退職金2520万円のところ、3月末まで働けば、140万円が減額されるという。

 小さな額ではない。同情すべき点はある。それでも生徒の存在を無視した駆け込み退職には、違和感を持たざるを得ない。

私はこの感覚の方に違和感を持たざるをえない。
140万円もの退職金を減らされるとわかっていて「辞めるな」なんて平気な顔して言っちゃう精神のほうが危険だと思う。
やめて欲しくなければちゃんと報酬を出すべきだ。「嫌ならやめろ」って言っていいのは「代わりはいくらでもいる」時だけなのだ。

教員の駆け込み退職調査 下村文科相「許されぬ」と不快感

http://sankei.jp.msn.com/life/news/130124/edc13012414280006-n1.htm
「責任ある立場の先生は、最後まで誇りを持って仕事を全うしてもらいたい。許されないことだ」

短期的には、先生の代わりはいない。
その責任ある立場の先生には、その誇りに見合った報酬をちゃんと出すべきである。退職金に関するルールは守れ、でも、退職に関するルールは破って良い、なんて話は筋が通らない。

介護の人手不足深刻 1060人募集も来場110人…香川

http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=71705
まんのう町の医療法人の人事担当者(66)は「優秀な人を選びたいが、選べるほど求職者がいない」とこぼした。

求人をする側は大変だろうが、人が足りない側は「選びたい」なんて偉そうなことを言ってはいけない。
「同情すべき点はある。それでも働く側の存在を無視した求人には、違和感を持たざるを得ない。」

事業所側には「人材確保には、国の介護報酬改定による待遇改善が急務」との声が根強いが、一朝一夕には進まない。

いつまでも「介護を受ける側の都合」で報酬を決めるからこういうことが起こるのだ。
「責任ある立場の介護職は、最後まで誇りを持って仕事を全うしてもらいたい。許されないことだ」
っていつまで言い続けるつもりだろうか。

子育てが儲かる仕事にならないと少子化は解決しない

日本は、なぜ少子化に敗れたか

http://blog.goo.ne.jp/keisai-dousureba/e/642a4306e87890ddce8d7a619129c2d9
本コラムでは、少子化を緩和するため、0〜2歳の乳幼児に月額8万円を給付することを提案している。大概の人は、この額を聞くだけでギョッとする。現在の児童手当は1.5万円だから、その5倍以上という「常識外れ」の額だからだ。しかし、乳幼児の保育は手がかかり、保育士1人は子供を3人までしか看れない。3人分の給付で保育士を雇えるぐらいの対策をしないと、意味あるものにならないのである。

コラム主は、月額8万円という額は「常識はずれ」と言いながら提案しているが、非常にバランスの取れたいい額だと思う。二人育てれば月額16万円だから、これだけで細々と生活していけるし、三人育てれば月額24万円だからそれなりに余裕のある生活ができるのではないだろうか。
こういう話をすると得てして「保育代が高すぎる」という話が出てくるが、こういう人は保育する側にも生活があることを忘れてはいないだろうか。消費者として保育してもらう側に立ったときはできるだけ安く、サービス提供者として保育する側に立ったときはできるだけ高く、と、ものの考え方がダブルスタンダードになっていてはこの問題は解決しない。
月額8万円の給付は0〜2歳に限らず、義務教育が終わる15歳までやってもいいのではないだろうか。そこまで給付しておけば、将来お金が一番かかるであろう高校、大学への学費にも備えることができるだろう。
月額8万円を15年、つまり180ヶ月支給すると一人頭1200万円になる。少なめに見積もって1年間に100万人の新生児が生まれると仮定しても15年間で1500万人になる。毎年1500万人の未成年者に月額8万円=年額96万円を支給すると年間で14兆4千億円も掛かる仕組みだが、現状でも年金に年間50兆円以上給付し、医療費に年間30兆円以上給付しているんだから、ちゃんと回る仕組みが出来れば決して無茶な数字ではない。
これをそのまま予算化し、税金で穴埋めしましょう、増税しましょう、といってもいいんだろうけど、それだけでは「税金を払ってでも子育てしないほうがリスク回避になる」「税負担をしても子育てするよりは得だ」にという話に突き進んでしまう可能性があり、こうなってはダメなのだ。お金は子供を産まないし、お金は子供を育てることはできない。子育てに汗をかく事が必要で、その労苦に報いる制度が必要なのだ。
コンビニやファストフード、居酒屋チェーン店のように、国がFCのフランチャイザー(本部)になって、若年層を子育てショップのフランチャイジー(加盟店)に仕立て上げ「名ばかり店長」として馬車馬のごとく子育てをさせ、本部たる自分たちは汗をかかず税金や保険料と言う名の「ロイヤリティー」を吸い上げ、本部は一切汗をかかない・リスクを負わないというシステムでは、子育ての成り手がいなくなるのは当然の結果である。
コンビニのオーナーが見つからない、FC店のオーナーが見つかりにくい、と本部が嘆いているのと本質は一緒なのだ。
また、国民負担という話が出てくると、そこから得られる利益も国民全体で得るべき、という話が出てくるのだが、それでは「フリーライダー」と呼ばれる人を減らすことはできないだろう。
コンビニやファストフード、居酒屋チェーン店で働くアルバイトに、もっとお客さんが増える知恵を出せ、客単価が上がるアイデアを出せ、と言いながら、賃金は据え置きだったり、お店の利益や貢献度に見合った賃金にならないようでは、知恵もアイデアも出さなくなるのは当然であるように「少子化は国全体の問題だからみんなで頑張って解決しましょう」、でも「少子化解決の利益は特定の人だけが享受します」ではダメなのだ。
こういう話をすると、昔は貧乏でも子沢山だった、という人がいるが、労働環境の違いを無視している人が多い。子沢山だった時代はサラリーマンが少なく、農家が多かった。つまり、通勤に時間を取られることもなく、自営なので好きな時間に自由に子育てに戻ることができた。しかも、機械化が進んでいなかったので、家族の中で労働力が増えることは「儲け」につながったのだ。だから、人手を増やすために子供をたくさん産んだのだ。農家では労働力として優れている男児を優先させたのも、人手不足になっても外部から人を雇うという発想がないのも、労働力にコストパフォーマンスを最大化させるために子沢山だったのだ。この辺の事情を忘れてはいけない。
この辺の感覚は実は現代でも変わらない。
現代でも子育てが自分の利益につながるならば喜んで働くだろう。
つまり、子育ての負担は国民全体でも、利益は子供を育てた人に集中させ、「子育ては儲かる」と言われるぐらいにならないと「自分が一番」「おしゃれな生活」といって憚らない大人の心には響かないだろう。
少子化の問題は高齢化の問題である。各方面で言われているが、少子化している当の子どもたちは特段困っていない。困っているのは、子どもたちに寄りかかろうとしている高齢者なのだ。それ故、少子化を解決するには「年金制度を廃止すればいい」という意見が必ずでてくる。これは賦課制度により所得が若年層から高齢者層に移転することに対する不満が大きいからだろう。この不満を取り除くには、若い世代の子育てに対する自分の労苦が歳を取った時に還元される仕組みになれば良いのだ。これはフリーライダーも防止できるので一石二鳥だ。
では、具体的にどうすればよいか。子育てという労働を年金保険料の代わりできることを認めれば良いのだ。子供を育てている間は年金保険料や健康保険料を免除し、子育て行為そのものを労働による保険料の代わりとみなすのだ。さらに露骨なことを言えば、たくさんの子供を育てた人にはたくさんの年金が給付されるようにすればいい。給付額は子どもと同じ、一人育てると月額8万円。二人育てれば月額16万円で細々と暮らしていける額であり、三人育てれば月額24万円と、ゆとりある生活が送れるようになる。子育て二人だと現状維持だが三人なら人口増に貢献したことになる。この差は決して小さくないだろう。これらの負担は子育て以外の世代が行うことになるが、人口が増えれば増えるほど負担率は下がる。
この制度の肝は「金を払って労苦を回避する」ことを良しとしないことだ。老後に金銭的に楽な生活をしたかったら、子育てという社会貢献をしなさい、というメッセージを込めることができる。厚生年金なら企業と個人が保険料を折半しているのだから、社員の子供が増えれば増えるほど企業負担が減ることになるから、インセンティブも働く。つまり「子育ては儲かる」ようになるのだ。
大人に育った子供は、子育てに掛かった以上の富を生む。社会全体としては儲かるのだから、子育て給付金のシステムは破綻しないはずだ。

狼は生きろ、豚は死ね

学歴から職歴へ

http://agora-web.jp/archives/1485540.html
これこそが、正に待ちに待たれた人事施策と諸手を挙げて賛同したい。経済の停滞する日本に取っての喫緊課題は、労働生産性の画期的な向上を図りつつ、社会の落ちこぼれ(失業)を防ぐ事と考えるからである。

正社員を4,300人削減し、パートを6,800人増員との話故、差し引き2,500人の新規雇用創出となる。失業者が2,500人減る勘定である。

失業者が減ると諸手を挙げて賛成している割には

仮に売り上げが未達となれば、利益だけでも達成せねばならない。その為に経費削減は避けては通れない。早い話、アルバイトを減らしその分店長の頑張りでカバーする事になる。一日12時間労働で一か月休みなしと言うのも充分あり得る話である。

売り上げが未達となればアルバイトを減らすと自分で言ってますね。これって要するに失業って事だよね?
諸手を挙げて賛成したくなるほど失業者が減るはずだったのでは?

ヨーカ堂が正社員を減らしてコンビニを増やすことでクビになるアルバイトが2500人位現れるだろう。差し引きゼロ。
いや、コンビニ同士の競争が激しくなって一店舗あたりの売り上げが分散するから、アルバイトを雇う余力をもつコンビニはセブンイレブンが増やした店以上に減るだろう。つまり、クビになるアルバイトは2500人では済まないという事になる。

一日12時間労働で一か月休みなしと言うのも充分あり得る話である。

甘いわー地獄のミサワがあきれる位甘いわー
「充分あり得る」なんていうレベルじゃないよ。売り上げが未達になったら1日12時間じゃ利かないし、それでいてヨーカドー時代の収入にはるかに及ばないだろう。
ヨーカドーからセブンイレブンの店長に振り向けられた人はいずれ独立した事業者として扱われる事は間違い。ここまでいけばこの後どうなるかはもはや語るまでもない。税金や保険まで自己負担という事になる。コンビニのオーナーが集まりにくくなっている原因がすでに知れ渡っているから、転籍させて人件費を軽くしながら自社でオーナーを供給して「生贄」を増やす一石二鳥の手法なんじゃないかと推測してしまいたくなる。

売り上げを伸ばす為には、「商品の品揃え」、「商品の陳列」、「店内の導線」、「アルバイトの顧客対応」、そして「店の雰囲気」に店長は絶えず気を配らねばならない。

コンビニ店長にこれらを自由にする権限が実質ないことは、ヨーカ堂の社員が一番よく知るところだろう。仕入れや品揃えの自由を奪うのがコンビニ本部側の旨みの源泉である事も分かっているだろう。わかった上で転籍させられる社員は脱サラなんかでコンビニ経営を始めた人以上にモチベーションが上がらないのは目に見える。
つまり、昨日まで「鵜飼」だった社員が明日から「鵜」になるのだ。

今回のイトーヨーカ堂の改革は「学歴」や「学歴」に依って獲得に成功した「正社員」と言う地位が価値を喪失し、代って個人の職務履歴と資格に裏付けられた「能力」が重視される時代の到来を予告するものと受け取っている。

こういう事を言うと騙される人がたくさん出てくる。
「これからは学歴の時代じゃない」という出だしで始まるキャッチコピーは昔からあった。しかし現実はどうか。
大学の増加と少子化があいまって進学する人の割合が増えている。

これからは「学歴」に加えて「職務履歴」の時代になる。いや、もうなっている。
新卒で正社員の椅子に座れなかった人は二度とその椅子には座れないのだから、仮に学歴が良くても職務履歴でふるい落とされるようになる。
つまり、高学歴な人はヨーカ堂みたいな職務履歴として認められるどころか傷が付きそうな企業には入社しなくなると言う事なのだ。もっとも、当のヨーカ堂自体が正社員を減らしたがっているのだから、新入社員も大して欲しくないと言うことなのだろう。

競争は激しければ激しいほど、良いものが生まれてそれにお金を出し、経済という名のパイが大きくなる…と信じている人がどのぐらいいるんだろうか。

「この度はセックスをさせて頂きまして誠に有難うございます。」これで楽しい?

アダルトビデオ大国日本でセックスレスが多い謎

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120806/wlf12080608000001-n1.htm
そして実際、西欧人の恋人同士は自分の性的な好みや感じ方をとことん話し合うし、身体でも確かめ合う。

これは日本人には無理だろう。
「空気を読め」「相手の心を察しろ」「阿吽の呼吸」「息を合わせる」というのが日本の文化。会話せずとも相手の心を理解し、しかもそれを先回りして実行する事で相手に喜びを感じてもらわなければならない。そこに輪を掛けて女性は「愛されてこそ女冥利」「女ははっきりと言わない」「相手に察してもらうように仕向ける」ことがイイ女だとすら思っている節がある。お互いにコミュニケーションをして良いところを探り合うのではなく、相手の出方でその人となりを計るのだ。これは女性に限った話ではない。いわゆる「草食男子」もこの方が美味しいポジションでいられるからこそ草食をやっているのだ。

セックス体験、早まる女性…30代15%童貞、男性「萎縮」の悪循環

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120514/wlf12051410330010-n1.htm
未婚者の性体験率は、男性の方が長らく高かったが80年代以降男女差が縮まり、ここ10年ほどは、10代では男性よりも女性のほうが体験率が高くなっている。こんな状況では男性は、体験豊富な女性から、もしうまくできないと軽蔑されるのでは、他の男性と比較されるのではと、心配は小さくないようだ。

女性がこうした「黙秘」「徹底的な待ち」の姿勢をする以上、どうすれば軽蔑されずに済むかと大いに悩むのが男性である。ところが、悩めば悩むほど女性に手が出なくなる。かくして童貞はいつまでたっても童貞のままと言う事になる。しかし、性欲はある。未経験なりに事態を打開したい。その解はアダルトビデオしかないのだ。現実的ではないセックスがそこには描かれているのは百も承知。しかし、他に頼りになるものはこの世に存在しない。さらに、アダルトビデオには女性の思いとは無関係な、男性がやりたいようにやるセックスが描かれているのだから、こういうセックスがしたい、と思うようになるのは必然なのだ。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120806/wlf12080608000001-n3.htm
よいセックスをしたいならば、AVからは距離をおこうと心がける。男性たちにはそうお勧めしたいと思うのですが、いかがでしょうか。

これは順番が違う。
ここで言う「よいセックス」とは何だろうか。恐らく正解はこうだ。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120806/wlf12080608000001-n3.htm
 AV女優のような反応をしないといって男性が女性を非難したり、女性にとっては苦痛な行為を行うなど、男性がAVから受け取る思い込みの弊害は、女性がかねてより指摘してきた。女性が求めるのはふれあいや関係性なのに、男性にそれが通じないというしばしば聞く悩みも、自己完結的な妄想世界の肥大と関係があるだろう。

AV女優のように反応をしなくてもよく、女性が何も言わなくてもすべてを理解し、愛を感じさせてくれるふれあいやぬくもりのあるセックスだ。
男性もおぼろげには分かっているだろう。良いセックスをするためにはAVから距離を置きましょう、と。AVから距離を置こうと言う事は、もっともっとセックスは女性本意にやりましょうという事だ。それがきっと男性にとっても良い事のはずだ、女性が喜ぶセックスは男性にとっても喜びを感じるはずだ、と。

セックスレスは日本の国民病? 明治大学文学部准教授・平山満紀

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120505/wlf12050507000000-n1.htm
 セックスレスという言葉がまだなかった高度経済成長の頃、男性がセックスを主導し女性は随うべきという考え方や、女性に植え付けられた性についての罪悪感、羞恥心はとても強かった。夫婦のセックスは愛情表現だという理念は謳(うた)われていたが、妻たちは拒む主体性を認められていなかったので、妻にとっては義務という意味合いが強かった。

この頃はセックスレスなんて言葉はなかった。十分な数のセックスが行われていたことだろう。
「男性がセックスを主導し女性は随うべき」「女性に植え付けられた性についての罪悪感、羞恥心」「妻にとっては義務」
ここがキーワードだろう。これを男女逆にしたらどうなるか。
「女性がセックスを主導し男性は随うべき」「男性に植え付けられた性についての罪悪感、羞恥心」「夫にとっては義務」
まさに現在の性生活、性文化そのものである。男女逆にすれば結果も逆になるのは当然だろう。
ましてや男性は「女性をいかに満足させるか」と呪いのように言葉を浴びせられ続け、男性が持つ強さや攻撃性は悪である、女性が持つ優しさは善であると社会から男性性が否定され、結婚後の夫婦生活は「夫の奉仕活動」「妻側のセックス拒否は正当な権利で夫側のセックス拒否は離婚理由になる」と、男性側の肉体的性から社会的性まで全否定の世の中である。同じ仕事をしても女性だとほめられ、同じ犯罪を犯しても男性だときつい罰が下される。

つまり、セックスレスとは「男性の主体性レス」と同義なのだ。セックスレスを減らしたいと思うのなら、男性にもセックスの楽しみを与えてはどうだろうか。楽しみを享受するのは女性の権利であり、楽しみを与えるのは男性の義務である。その義務をありがたいと思いなさい、喜びとして感じなさい、とどうしようもない事を言い続けてきた結果がこのザマなのである。

いまの世の中は「仕事はさせていただくもの」という、どこをどう間違ったらこんなひねくれた奴隷根性になるのか理解しがたい考え方が隅々にまで蔓延っている。男性にしてみればセックスも同じだろう。「この度はセックスをさせて頂きまして誠に有難うございます」とでもいわなければならないぐらい卑屈になっている。こんな卑屈でつまらないセックスをするぐらいなら、AVを見て自己満足した方がはるかにましだと思うほうが健全なのではないだろうか。

企業には「10年清算制」を

国家戦略会議の「40歳定年制」に賛否両論 安易な大胆リストラ助長も

http://www.sankeibiz.jp/econome/news/120802/ecd1208020500000-n1.htm
報告書も「現在の60歳定年制は企業に人材が固定し、新陳代謝を阻害している」と指摘する。定年後、新たな知識を得たうえで同じ企業で働くケースもあれば、経験を生かして起業したり、民間非営利法人(NPO)に関わることなどを想定しており、「イノベーションが必要な産業を受け皿にすべき」(新浪社長)との声は強い。

「企業に人材が固定し、新陳代謝を阻害している」と言うのだったら、経営側が労働側を切り捨てる制度だけ導入するのは不公平だろう。切り捨てる側の経営側も40歳になったら退くべきだ。もっとも、40歳で経営側になると言っても「名ばかり管理職」の課長職が圧倒的に多いだろうから、不公平だと言ったところで経営側はあまり痛くないだろう。
正社員が持つ「60歳定年制」を「既得権」「新陳代謝を阻害する」と言うのであれば、社員を切り捨てる側にも新陳代謝を進めるために貢献をしてもらわなければなるまい。
「同じ企業で」といってるが、それでは新陳代謝にはならない。単に賃下げのための口実である。高級官僚の天下り禁止を唱えている人に対して「経験を生かせる企業に天下りするのは当然である」と返答する人と同じ理屈だ。本気で新陳代謝を進めるのであれば新たな就職先は「起業」「NPO」だろう。しかし、起業がいかに難しいものであるかはいまさら語るまでもあるまい。
イノベーションが必要な産業を受け皿にすべき」と言ったところで「じゃお前が起業してみろ」といわれるのがオチである。
「起業しやすくするにはどうすれば良いか」と言う話は「人材の新陳代謝を促すにはどうすればよいか」という話と同じである。
「人材の新陳代謝を促すには、クビを切りやすくすれば良い」と経営側はいつも言っている。ならば、答えは一つ。
「起業しやすくするには、廃業しやすくすれば良い」ということだ。
儲かっている起業だろうがなんだろうが、廃業してもそれが有望な市場なら開いた穴を埋める企業が必ず現れるはずだ。
人材の流動化を高めれば雇用が改善し、賃金が上がるだろう、なんて言ってる有能な経営者は快く廃業に応じてくれるだろう。新しく興す会社は必ずや企業体質がよくなり利益がアップするはずなのだから。
じゃあ、いつになったら廃業すればよいか。
最近は企業の寿命が短くなり「企業10年説」なんて言われるようになって来ている。実際はもうちょっと長いだろうが、美味しいところを残すと言う意味では10年で一区切りつけるのが良いタイミングだろう。10年で会社を強制的に清算。利益があれば株主だけでなく従業員にも山分けすべきだろう。それを元手に起業するのも良いだろうが、普通に考えればそんな馬鹿な事はしないだろう。清算して他人の手に渡るぐらいなら、その前に使っちゃえ、と考えるのが企業と言うものだ。内部留保をたんまりと抱えさせることなく強制的に他のところに投資をせざるを得なくなる流れができるだろう。そうなれば起業ごと新陳代謝が発生し、時代にあった企業が成長し、消えるべき企業は10年で消え去る事になる。
正社員に40歳定年制を望むなら、企業も新陳代謝のために10年で強制的に消え去る覚悟を持って欲しいものだ。

つぶやく暇がある人は土日休める人

「土曜祝日も振替に」意外と不評?

http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/jikenbo_detail/?id=20120712-00024979-r25
ツイッターユーザーの声は、「本当にお願いします!」「嬉しい限り」「わーい!」と、大半が歓迎ムードだ。

ところが、ネット住民の反応はまったく正反対。休日増加案が登場すると、2ちゃんねるの関連スレッドには、
「どうせ休日出勤」
「あ?自営業なめんなコラ」
「休日減らしていいからサビ残なくせ」
「いらん 仕事がへるわけでもなし」

など、日頃の不満が噴出し、同案の狙いである「観光振興」についても、
「大増税で金がなくなるのに何言ってんだ?」
「お金貯め込んでるとか思ってる????www」

といったツッコミが入っている。

結果から言えば、ツイッターでつぶやける人と言うのは、仕事がない人はもちろんの事、仕事があってもある程度自由になる時間がある人であり、自由な時間があるからつぶやくネタにも困らないということなんじゃないかと推測。かつて、モバゲーとグリーの利用者はフリーターと運転手と主婦ばかりだと言われていたのも同様の理由だからではないかと思われる。そういう生活をしている人は、少なくとも仕事に追われて休みも満足に取れない、という生活はしていないものと思われる。都市部なら、仕事中でも電車移動の時間があったり、外回りをしていてちょっとした時間つぶしができる余裕がある人だったり。ツイッターはある程度リアルタイム性があるため、つぶやきに1日遅れで返事をしても話がかみ合わない事が多い。ツイート数が多ければ多いほど、暇がない人とのギャップが広がっていく。

一方、2ちゃんねるがメインな人は、仕事をしていても1日中缶詰になっていたり、綿密なスケジュールの中で仕事をしていたり、過剰な仕事を押し付けられていて休日も休みにくいと言うような人が多いんじゃないかと推測。2ちゃんねるのような掲示板なら1000の書き込みが埋まるまでは話題に合流しやすいから、ツイッターほどリアルタイム性を求められないし、大きな話題になれば過去スレから話題を引き継ぐ文化も出来ている。と、なれば、残業や休日出勤で深夜や早朝にしかネットに書き込みが出来ないような層はツイッターよりも2ちゃんねるがメインになる事は想像できる。

ツイッター民と2ちゃんねる民て意見が分かれた理由はそんな感じじゃないのかな?

いじめられる気持ちを思い知れ、絶対強者なんて許さないという気持ち

“いじめ自殺”ネットが異常暴走!加害生徒をさらしてリンチ状態

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20120713/dms1207131129013-n1.htm
「(ネットユーザーは)初めのうちは義憤であったり正義感などで動いたのだろうが、いつしか情報を暴いて加害者を攻撃することが目的になっている」と指摘。

まぁ、そういう奴もいるだろう。

だか、本質はそこではない。加害生徒が逮捕されて欲しいとか、裁判で有罪になって欲しいとか、そういう気持ちは二次的なものであって本質は違う。本質は「いじめられた生徒の気持ちを思い知れ」という事だ。
複数の生徒から日々いじめられる。学校に訴えてもダメ。警察に掛け合ってもダメ。この救いようのない事態を同じ長さの時間、同じ回数、同じ痛みを心で、身体で思い知れ、という事なのだ。
それゆえ、警察に捕まって身柄を保護され、法の裁きを受け、罪を償うというだけでは足りないと言う事なのだ。
日常の中でいじめにおびえおののきながら24時間ひと時も心安らぐことなく生活する苦しみは、法の裁きでは思い知る事が出来ない、という気持ちの現れであるのだ。

その一方、義憤や正義感とはまたちょっと違った気持ちがこもっているようにも見える。
被害者が救いを求めた学校や教育委員会、警察がまったく役に立たなかった。それどころか、これらの組織はいまだに自己保身と責任逃ればかりを考え、現状から逃げよう、目を背けよう、なかった事にしようという思いばかりが伝わってくる。
それに対し、加害生徒だけでなく、こういった組織に対しても加害生徒と同じ加害組織である、お前らも自殺した少年の思いを知るべきだ、権力と地位に守られた絶対安全のポジションからの高みの見物は許さない、という怒りの表れである。

街のすべてから見捨てられた少年や家族の気持ちかいかばかりか。
県庁所在地という大都市レベルで社会正義が失われ、味方になってくれる人をすべて失い、30万市民すべてが敵に見えたのではなかろうか。

その気持ちを察する事ができるから、せめてネット上では被害者の味方になってあげたい、という事なのだと思う。

「個人情報をネットに書き込む危険さは、間違って無関係な人の情報をさらした場合、侮辱罪や名誉毀損に問われる可能性があること。今回のように加害生徒に関係のある人の情報でも、刑事事件は難しくても民事的に損害賠償請求はあり得る」

ネット上に個人情報を書き込んでいる人は、多かれ少なかれ、こうなる事を知っていると思う。分かっていても声を出すべきだ、ネット上に表現すべきだ、と思っている人たちだと思う。

事件解決の見通しも何もないまま「加害者にも人権がある」なんて言っても納得できる人は少ないだろう。本音を言えば「被害者の人権なくして加害者の人権なし」といったところだろう。

「リスクを負わず、ネット上でギャーギャー騒いでいるだけの人に何ができるか?」なんていう人も目に付くが、警察に届けを出した上で、プラカードや横断幕を掲げて、秩序正しく大声出して街中を練り歩くデモ行進に意味や効果を感じる人がどれだけいるのだろうか。結果を出さないと意味がないと感じる人はデモ行進よりネットでの書き込みを選ぶだろう。デモ行進はせいぜい数万人の参加者と、わずか1分程度テレビでニュースに取り上げられておしまい。翌日には忘れられてしまうだろう。あとは参加者が活動家扱いされるのが関の山である。しかし、ネットならうまくいけば数日はホットな話題として取り上げられ、数十万人から数百万人レベルに意図が伝わり、あとから主張を再確認する事も容易である。

「このままでは第2、第3の自殺者が出かねない」

本音を言えば「加害者も自殺して欲しい」といったところなのではないだろうか。
被害者の気持ちを思い知れ、という気持ちが根底にあるのだから、裁判で罰を受けるのではダメなのだ。絶望に打ちひしがれた気持ちの中、どうして自分は死ななければならないのだ、と深い疑問と、死にたくないという本音を抱きながら、自らの手で自らの命を絶ってこそ、被害者の気持ちを知る事ができる、という事だろう。

こういうニュースやコメントが出ること自体、いじめられた事がある人自体が少数である事の証であり、本当にいじめられる事の悔しさや恐怖を味わった事がある人が少数であることの証だろう。