必要なのは労働者が自ら進んで辞めたくなる環境

雇用流動化へ「40歳定年を」 政府が長期ビジョン

http://www.nikkei.com/article/DGXNZO43478440X00C12A7EA2000/
改革案の柱は雇用分野だ。60歳定年制では企業内に人材が固定化し、産業の新陳代謝を阻害していると指摘。労使が合意すれば、管理職に変わる人が増える40歳での定年制もできる柔軟な雇用ルールを求めた。

これではまるで企業にしがみついている労働者が邪魔なのに、制度的に首が切れないから産業の新陳代謝を阻害していると言わんばかりだ。労働者が企業にしがみついているのは、雇用の椅子そのもの不足しているからだし、今座っている椅子より待遇の良い椅子がないという、労働者側に降りかかる問題なのだ。それなのに、産業の新陳代謝を進めたいから労働者の首を切りやすくしましょうと、企業側の問題にすりかえてしまっているのだ。

早期定年を選んだ企業には退職者への定年後1〜2年間の所得補償を義務付ける。社員の再教育の支援制度も作る。雇用契約は原則、有期とし、正社員と非正規の区分もなくす。

もう、ここで本当の目的が見えている。「産業の新陳代謝」なんてどうでもいいのだ。本音は「正社員と非正規の区分をなくしたい」のだ。
企業側の問題として扱おうとしている問題なのに「正社員と非正規の区分をなくしたい」なんて言ったら、目標はただ一つ。「全員非正規扱いにしたい」になる事は火を見るより明らかである。

将来の理想は付加価値の高い産業が立地する「共創の国」とした。時間や場所を選んで働けるようになれば仕事と育児を両立できる人が増え、出生率は改善すると見込んでいる。

ないない(笑)
車が売れない、住宅が売れない、出生率が上がらないと嘆いている世の偉い方々。
手元にキャッシュがない人は車をローンで買うでしょう。住宅をキャッシュで買う人は少ないでしょう。大抵の人はローンを組む事になる。子どもが生まれたら20年ぐらいは育て続けなければならない。それなのに「40歳での定年制」なんてやったらどうなるか。大卒の社会人1年生は22歳。わずか18年後には首を切られる恐れを抱くようになる。もちろん22歳で結婚している人や子どもを育てている人は少数であろうし、住宅を購入済の人も少数であろう。住宅購入や子育てはもっと先。30歳位になっているとすれば、猶予は10年しかない。と、なれば、子育てや住宅購入はもはやリスク以外の何者でもなくなってしまう。
つまり、仕事と育児の両立どころか、仕事も育児も「どうも無理っぽい」と20代のうちから諦めるようになってしまう人が続出する事になるだろう。

必要なのは雇用の椅子を増やすこと。椅子を増やせば待遇のよさで椅子を選ぶようになり、企業が首を切らずとも労働者は自ら安心して仕事を辞め、次の仕事場に向かい、新陳代謝が進むはずである。

大企業は居心地がいいからやめる人が少ないが、中小企業は人の出入りが激しい。つまり、雇用が流動化しているのだ。
で、現実はどうか。
雇用の流動化が進んでいる中小企業は生産性が高くなっているのか?時間や場所を選んで働けるようになっているのか?仕事と育児を両立できる人が増えているのか?
答えは断じて否である。

地方ローカル鉄道を学ぶと映画の観客が増える?

映画料金が何円なら利用回数は増える? 1000円がポイントに

http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1206/15/news058.html
現在、一般的な映画料金は1800円。「高い」という声も少なくないが、映画料金値下げと鑑賞回数の変化について調べたところ、映画料金が1500円になると19.1%が「鑑賞回数が増える」と回答、1000円だと55.3%、800円だと67.6%、500円だと77.5%と変化した。映画料金が1000円以下になると、鑑賞意欲に大きな差が生まれるようだ。

映画って、不調になるとすぐに料金の話が出てくるわけですが…実感として1800円は確かに高いように感じる。消費する時間や映画を見た後の満足感を考えると「ランチ1回分」あたりが適正なんじゃないかなぁ、なんて感じるわけで、それを考えると1800円が高い、と感じてしまうのだ。さらにジュースやお菓子を買えば数百円が上乗せされるため2000円はゆうに越えてしまうだろう。

しかし、映画って料金だけが問題なのだろうか。それを考えたとき、ど田舎に住んでいる私は「映画って地方のローカル鉄道に似てる」と感じてしまうのだ。

  • 遠い

都市部に住んでいる人なら感じないと思うけど、かなりの田舎に居てもコンビニはかなり身近にあるし、ホームセンターやファミレスのようないわゆるロードサイドのお店もそれなりに近くにあることが多い。しかし、映画館はちょっと遠い。車で30分以内ならかなりマシだろう。1時間や1時間半かかるというケースもある。映画1本のためだけに往復2時間や3時間もかけるのは労多くして得るものが少ないと感じてしまうのだ。
これは地方ローカル鉄道における「駅の遠さ」に通じるものがある。都市部では徒歩10分以内で何らかの駅に着くことが多い。悪くても徒歩15分以内である。つまり、最寄り駅まで概ね2km以内ということを意味する。しかし、地方は駅間自体が5km以上もあることが多く、網の目のように鉄道網があるわけでもない。つまり、最寄り駅から遠いのだ。いくら運賃を半額にしますといわれても、駅から遠くては利用しないだろう。映画館に客足が向かないのも同じ理屈である。

  • 本数が少ない

上映本数は5本〜8本/日。2館同時上映と計算しても倍の10本〜16本/日である。つまり、多めに見ても1時間に1本しか上映開始しないと言うことだ。オンデマンドのサービスに慣れてしまった現代、最悪2時間待ちと言うのではとても待てない。
これも地方ローカル定道と同じだ。都市部の鉄道なら数分から10数分待てば電車がやってくるが、地方ローカル鉄道では1時間や2時間に1本しか電車が来ない。結果「不便」ということになり、利用客が離れる原因となっている。これもまた地方のローカル鉄道と状況が似ている。


と、いうことは、逆に考えれば、地方ローカル鉄道の活性化策をまねれば映画の観客が増えるのではないだろうか?

  • 近くする

大都市に1つ2つと作るのではなく、コンビニのように10席〜20席程度の小さな映画館をたくさん作ればよい。そうすれば映画館が身近になり、気軽に行くことができるだろう。映画館に足を向ける層と客層が近いであろう、レンタルビデオ店並の店舗密度は欲しいところである。
そうはいってもそんなに映画館を増やしたら設備投資や人件費が膨大になって採算が合わなくなるのではないか?という疑問が生じる。
まずは視聴環境だ。これまでどおりの大スクリーン&ド迫力のサウンドで楽しみたい人は、従来の映画館に行ってもらうしかないだろう。しかし、今までちょっと足が遠のいているお客に来て欲しいという場合はこのお気軽お手軽な映画館で十分である。最新のヘッドマウントディスプレイとヘッドフォンで、擬似的に大スクリーンとド迫力サウンドを楽しんでもらうことにする。
次に映画そのものの配給である。最近の映画はフィルムではなくデジタルデータで配給されるケースもあるので、技術的に大きな問題はないものと思われる。どうせ映す先は大スクリーンではなくヘッドマウントディスプレイだ。大スクリーンに耐えられるような高解像度である必要はないだろう。おまけにヘッドマウントディスプレイで視聴することを前提にすれば、盗撮問題もおきにくいし、3D対応だってどうせメガネをかけるんだから一緒である。

  • 本数を増やす

ヘッドマウントディスプレイとヘッドフォンで映画を見ると言うことは、ヘッドマウントディスプレイとヘッドフォンの数だけスクリーンがあることと同じである。しかも、映画がデジタルデータで配給されると言うことは、10本や20本程度ならいつでも映画を上映開始できると言うことである。いわばオンデマンド上映。待ち時間が要らないんだからストレスもない。また、映画を見ている最中は基本的におしゃべりはしないんだから、目と耳をふさいでいても問題はないはずである。


たったこれだけ。映画配給会社がデジタルデータで全国何万店という映画館に映画を配給することでマスターデータそのものが漏洩する脅威が増す、という話が出てくるかもしれないが、全国区のコンビニチェーンがやれば店内のジュースやお菓子も売れるだろうし、レンタルビデオチェーンがやれば、旧作のレンタルビデオと合わせてセールスがやりやすくなるだろう。
ツタヤやタワーレコードのような、セル中心の店だったら、いっそのことCD売り場をミニ映画館化してしまってはどうだろうか。CDはこれからますます売れなくなるだろうから、空きスペースの活用にももってこいだろうし、音楽ファンと映画ファンは客層が重なる部分も多いだろうから、映画を見終わったあとでサウンドトラックCDを買ってもらうきっかけにもなるだろう。
悪くない話だと思うんだけどなぁ(笑)

農業化する映像・音楽業界

違法ダウンロード刑事罰化・著作権法改正案が衆院で可決

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1206/15/news057.html
政府提案の改正案では、暗号によるコピー防止技術が施されたDVDなどの複製を私的複製の範囲外とした。CSSによるコピー防止が施されているDVDをPCのHDDに吸い出すリッピングは、ユーザーが購入したDVDを自分のPCに落とす限りにおいては私的複製として認められてきたが、施行されれば今後は違法になる。罰則規定はないが、DVDをリッピングできるプログラムの提供などには罰則が科される。

古くはレコードやFMラジオからカセットテープにダビングをしていたことが「私的複製」の範囲と解釈されていた時代からの流れで、消費者は音楽CDも私的範囲の中でカセットテープにダビングをしてラジカセやウォークマンで音楽を楽しんでいた。しかし、あるときCCCDというものが世に登場することになり、CDが技術的にコピー禁止ということになったのである。
ここで消費者に疑問が生まれることになる。
「私たちが買ったものは何なんだ?」
それに対し、楽曲を販売する側は「楽曲を聴く権利を買っている」と回答したのである。
レコード盤は針を乗せて聴く媒体である以上、物理的磨耗があり、最後には楽曲が満足に聞けなくなってしまう。それを防ぐ意味でカセットテープにダビングをして、音源たるレコード盤は大事に取って置く、という音楽の聴き方が普及したのである。CDも同じである。傷が付けば楽曲が聴けなくなってしまう。それを防ぐために私的複製を行っていたのである。それなのにコピー禁止といわれたら、返す素朴な質問はただ一つ。
「CDが傷ついて聞けなくなったらどうするの?」
それに対し、楽曲を販売する側は「もう一枚CDを買ってください」と回答したのである。
これに消費者は怒った。
「私たちが買ったものは楽曲を聴く権利じゃなかったのか?」

この怒りはおさまることなく、時は流れ…
アップルがオンラインで楽曲を販売し始めたのである。媒体無し、純粋にコンテンツだけ、と言うものだ。しかも、一度買った楽曲は再ダウンロードができると言うものである。
消費者は納得した。
「私たちが買ったものは間違いなく楽曲を聴く権利だ」と。
この頃から、CDを売る側は「CDが売れないは違法ダウンロードのせいだ」「カジュアルコピーのせいだ」と騒ぎ始める。しかし、消費者は納得しなかった。
「お前らが売っているものは『楽曲を聴く権利』じゃなかったのか?」
「それだったらお前らもネットで売れば良いだろう」
という消費者の声が上がっていた。
それと同時に疑念が浮かび上がる。
「CDを売る側が売りたいのは『楽曲を聴く権利』ではなくて『銀色の円盤』を売りたいのでは?」
という疑念だ。
しかし、この疑念は晴れることなく時は流れることになる。
そして、この法律改正。
消費者が抱いていた疑念は確信へと変わるだろう。
「CDを売る側が売りたいのは『楽曲を聴く権利』ではなくて『銀色の円盤』だ!」と。

こういう経緯があるから、今回の法改正も
「楽曲を広く世に流通させたかったら俺たちのところを通せ、楽曲を聴くスタイルも俺たちが決める」
と言ってるように聞こえてしまうのである。
と、なれば、後はお得意の拡大解釈である。
CDがそういう解釈してるんだから、CSSのような明らかにコピー防止機能が入っているものは当然ダメだろう。
結果、媒体としてのDVDがダメになったら買いなおせ、と言うに違いない、と解釈されてしまうだろうと考えるのである。

そこで、ふと思った。
この仕組み、どこかで見たことがある…と思ったら、農家と農協の関係と同じ。

農家(楽曲を制作する人)はせっせと米(楽曲)を作るのに、自主流通(インディーズ)は実質制限され、農協(レコード会社)が流通のネックになって、流通を牛耳る。それどころか農協(レコード会社)で働く人を支えるために農家(楽曲を制作する人)がますます苦しむ、という構図。

農作物(楽曲)を育てるために農機具や肥料などの斡旋販売(プロモーションや販促)はするんだろうけど、その負担は最終的に農家(楽曲を制作する人)に返ってくるところまで似ている。

農業の世界はまだまだ「農協はずし」も「農家の企業化」もそれほど進んでいない。しかし、楽曲はインターネットという武器がある。これを使って既存の流通を破壊する方が得か、温存した方が得か…その答えは農業にある。

映像の世界も音楽業界の後を追うだろう。データ量が多くて重い。関係者も動くお金も桁違いに多い、と言う意味では音楽だけよりはまだ体力があるかもしれないが…

日本における労働者の「魅力不足感」は81%、最も不足を感じる職種は?

日本における企業の「人材不足感」は81%、最も不足している職種は?

http://news.mynavi.jp/news/2012/06/04/019/
企業が人材不足を感じている職種は、2011年からほとんど変化は見られないが、順位には変動が見られ、2011年は3位だった「エンジニア」が1位、2011年は4位だった「会計・財務スタッフ」が3位に順位を上げており、総じて専門性の高い職種において人材不足感が強い。

人材は不足しているけど、お金は出しません、休みもあげません、各種手当ても福利厚生もありません。それでも働いてくれる人が欲しいんです、ってはっきり言えばいいのに。

企業から見たら「人材不足」なんだろうけど、労働側から見たら仕事に対する「魅力不足」なんだよね。人自体は余っているんだし、スキルが足りない人でも勉強して身につければその職に就ける状態でも、そこまでやろうとする人は少ない。それは待遇に魅力がないから。

人材不足を感じていると回答した企業826社に、必要な人材が確保できなかった場合、顧客の要望にこたえる能力にどの程度の影響があるかを聞いたところ、「非常に影響がある」と回答した企業は25%(210社)、「やや影響がある」と回答した企業は59%(486社)となった。

「不足を感じている」のに「必要な人材が確保できなかった場合」っていう質問はなんなんだろう?
「不足を感じている」=「すでに不足している」じゃないの?
その上で影響があるかないかと聞けば「ある」と答えるだろう。
勝手な解釈だけど「やや影響がある」なんていう企業はその程度の感触であって、企業の利益が減るとか事業が回らなくなるとかそういうものではないだろう。そういう企業が待遇改善に動くとは思えない。そんな企業が59%を占めるという見方をすることも出来るのだ。

826社に人材確保が難しい理由を聞いたところ、27%と「対人力」と回答した企業が最も多かった。以降、「チームワーク・協調性」「熱意・モチベーション」がそれぞれ26%、「柔軟性・順応性」が23%、「不明瞭なことや複雑なことへの対応力」が22%と続く。

「(わが社が苦手とする)あいまいな仕事をうまいことこなして欲しい」と私は読みたくなる。
そんな会社に対人力がある人材が来るだろうか。会社そのものが対人力に欠けているのに対人力がある人のことを評価できないだろう。結果として待遇は悪いままとなる。

足りないと言う前に、自社で人材を育てて、その価値とありがたみを十分に理解できるようになってから、外に人材を求めてはどうだろうか。さすれば、その価値とありがたみに応じた待遇を用意することもできるし、社内で反対する人もいなくなるだろう。

有給休暇が満足に取れない日本人に1円セールは伸びない

LCCの1円セールが売れ残る 日本人の生真面目すぎる性格

http://diamond.jp/articles/-/18621?page=2
1円であれば、たとえ当日行けなくなったとしても、損をするのはたったの1円である。ジェットスター・ジャパンの今回のキャンペーンでは手数料が200円かかったため、キャンセル時の実質的な費用負担は201円になるが、それでも微々たるもの。

 ならばとりあえず座席を押さえてしまえばいいものを、生真面目にも期間中の自身の予定などを確認しているうちに、キャンペーン時間が終わってしまったようなのだ。オーストラリア人の感覚からすれば、日本人は馬鹿正直すぎるかもしれない。

確かに日本人はバカ正直なのかも知れない。でも、本質はちょっと違うような気がする。
バカ正直なんじゃなくて、100%絶対確実じゃないから売れなかったんだろう。

仕事を持ってるほとんどの日本人は「休みは自由に取れない」「休む予定だった日ですら仕事で潰される」と感じている。

つまり、高いお金を出してチケットを買い、不退転の決意で万全の準備をし、事前に有給休暇を申請してなお、旅行をキャンセルせざるを得なくなったことは枚挙に暇がない。そんな状況が日常である日本人に突然1円でチケットを売りますなんて言われても、ほぼそのチケットはキャンセルすることになるだろう。そんな分の悪い博打に201円は捨てられないと言うことだ。さらに、キャンセル代は旅費だけではすまない事も忘れてはならない。ホテルの宿泊代などもキャンセル代が請求される可能性がある。こうなるとおいそれとはチケットを買うわけにも行かないだろう。

万難を排し、無事休みが取れたとしても、その1円チケットを利用するまでに、何千円、何万円といったお金がかかるということも見過ごせない事実であろう。さらに、無事旅行に出かけられたとして、帰りはどうする?という問題が立ちはだかる。その辺まで見通して、100%安心安全、リスクゼロじゃないと日本人は飛びつかないのである。

テレビ番組も「小分け」「旬のもの」「栄養価の高いもの」を

フジ12年ぶり昼ワイド「知りたがり!」早くも瀬戸際

http://news.livedoor.com/article/detail/6552549/
打倒「ミヤネ屋」(日本テレビ系)を合言葉に、12年ぶりに昼のワイドショー戦線に殴り込みをかけたが、視聴率は2〜3%台をウロウロ。

テレビ局っていうのはなんで同じ時間に同じような番組をやりたがるんだろうか…
…なんて、いまさらな疑問から入らざるを得ないほど、テレビ放送の環境が変わっているのに、相変わらず、いや、むしろ昔よりただひたすらひたすら守りに入っていくテレビ放送。
私はワイドショーはあまり見ないのだが、扱っている情報やネタに各局や各番組ごとの差はそれほど大きくない事ぐらいは分かっている。
ワイドショーが分かりやすい現象の一つであるというだけで、それ以外の番組もそうだ。テレビ局とテレビ番組がリンクしなくなっている。
芸能界についてはほとんど分からないのだが、一般的に耳にするのが「あの人は数字を持っている」という言い方。要するに、特定の人気芸能人や有名タレントを番組に出演させると視聴率が上がる、と言うことらしい。これもテレビ局とテレビ番組がリンクしなくなっている証拠だ。

つまり、○○テレビで放送する「××」という番組が面白いのではなく、何処のテレビ局で放送しても「××」という番組が面白い、ということ。なんかこう書くとあまりにも当たり前すぎてバカバカしささえ感じるのだが、このことをテレビ局が自覚しているのかな?と疑問に感じたりする。

一般のスーパーだってそうだろう。ヤマザキの食パン、カルビーのポテトチップス、キッコーマンのしょうゆ、ニッポンハムのソーセージなどなど。日本全国津々浦々で売っている。「○○スーパーで売っているヤマザキの食パン」が美味しい、なんていう人はいないだろう。評価の対象になるのはスーパーではなくメーカーである山崎パンだ。また、青森のりんご、千葉の落花生、長野のレタス、愛媛のみかん、広島のカキ、鹿児島のサツマイモなどは産地が評価される。ナショナルブランドの加工食品よりは幾分仕入れによる違いを出せるだろうからわずかではあるがスーパー自体も評価されるが、他店との差別化にはつながりにくい。そこで考えるのがプライベートブランドだ。セブンアンドアイの「セブンプレミアム」やイオンの「トップバリュ」などが挙げられる。こういった取り組みは何も食料品だけではない。衣料や薬、電器など多方面に見られる傾向である。もちろんこれらの業界内同士でも他社で売れたものがあれば、自社でも用意するのは当然のことであり、テレビ局は別だとはいえないだろう。

しかし、テレビ業界とは決定的に違う点がある。他の業界は大抵「後追いの方が良いものである」か「違いを明確にして差別化をはかる」かしているものであるが、テレビ番組に関して言えば「後追いの方が酷い」か「違いを出せずにパクリと言われる」かのどちらかである。そういう意味ではテレビ業界と言うのは他の産業のように「後追い有利」ではなく、情報産業のように「先行者有利」の世界なのかもしれない。

と、なれば、考え方を変える必要があろう。

スーパーの「98円」という価格設定のような「56分」「57分」「58分」始まりの番組に意味はない。よそがすぐに真似をするからだ。しかも、この発想が「他局より早く番組を始めればチャンネルを合わせてくれてその後も番組を見続けてくれるだろう」と、楽観的過ぎだ。さらに「番組枠拡大」とか「3時間スペシャル」とか言っちゃっていかにも豪華風に見せてるけど、時間枠拡大にあわせて内容が薄くなっていることは視聴者誰もが知っている。結局、番組制作にかかる経費削減にしか見えていない。スーパーの商品でも「簡易包装にしました」なんていうものがたくさんあるが、中身を薄めたり減らしたりしているわけではないのが、テレビ番組と違うところだ。

リモコンのボタン一つでチャンネルを切り替えられるようになってウン十年。今はインターネットでありとあらゆる動画が即楽しめる時代にすらなっている。そんな中、番組枠を拡大しちゃうと、次のチャンネル切り替えタイミングが減ってしまうのだ。つまり、視聴者をテレビ番組に呼び戻すチャンスが減ってしまうのだ。ゴールデンタイムに3時間番組なんてやったら、19時に視聴者を逃がしたら、22時まで絶対帰ってこないと思った方がいいということなのだ。

もう一つ、小売店が長らく取り組んでいることの一つに「小分け」がある。昔は家族も多かったし主婦もたくさんいたので、食材も大量に買って大量に消費することが出来た。でも、今は違う。独身の人や独居老人、共稼ぎ世帯が増えて一世帯あたりの人数はどんどん減っている。つまり、ちょっと割高でも小分けにした商品が求められているのだ。コンビニなどで一人分から買えるのもそういう市場が広がっているからなのだ。

これをテレビの世界に当てはめてみるとどうなるか。昔、テレビは一家に一台だった。つまり、一台のテレビをたくさんの人で見ていたことになる。これはスーパーで大量の食材を買って家族みんなで同じものを食べていた時代と同じことである。今はどうか。とっくの昔に一人一台を迎え、今はパソコンや携帯電話などもあるため、一人で複数のモニターを見る時代である。テレビだけに何時間も目を配る訳がないのだ。そんなところに2時間、3時間の大型番組を持ってきても「食べ残し」が発生するだけである。しかも「季節はずれのハウス栽培の野菜」のように内容が薄くなっているから、食べても食べても満足感がないのだ。

だらだらと時間を延ばすのではなく、昭和の頃のように30分や15分程度に「小分け」にし、一話完結にすることで「栄養価を高く」した上で、時節に合った「旬」を大事にしなければならないだろう。
動画を視聴する媒体としての電波とインターネットの違いと言うのは、スーパーやコンビニに対するAmazon楽天の存在と同じなのだ。コンビニで売れない商品は1週間で姿を消すといわれている。一方、ネット企業は物量と最終消費者へのタイムリーさとダイレクトさで勝負をかける。YouTUBEニコニコ動画は即時に視聴者の感想が書き込まれ、即時に視聴された数が分かる。さて、テレビ局とテレビ番組はどうか。

性交渉、男性はリスク回避が難しく、女性はリスクゼロまで下げられる

セックスレスは日本の国民病? 明治大学文学部准教授・平山満紀

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120505/wlf12050507000000-n1.htm
性的に嫌な夫を拒めない妻が、意識的無意識的にねじれた表現をしていると推測できる。

これはセックスレスに限った話ではないだろう。
日本人が持つ過剰なまでのリスク回避精神の一つがセックスレスなのだ。
上の例についても、当時の夫婦関係は「離婚は恥ずべきこと」という大きなリスクが存在していたから、如何に離婚せずに夫を拒むかということに意識が傾いていったのであろう。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120505/wlf12050507000000-n2.htm
女性に性的な主体性を認めない社会は少なくない。アフリカの広い範囲では女性器切除によって女性の感覚を破壊し、多くの社会で女性だけに貞操義務を求めたり活動の制限をするなどだ。これらの社会と比べると、女性が拒むことによるセックスレスが起きるのは、女性の苦痛がなくなっただけ良くなった社会だと言える。

セックスは男女がそれぞれ持つリスクとリターンの交換と言う意味が含まれるとても生々しい行為だ。
女性に性的な主体性を認めない社会が多いのは「女性に主体性を認めると生まれてきた子どもの男親が誰なのかが分からなくなるから」という男性が持つ根源的なリスクに行き着く。それを防ぐために男性は女性には貞淑であることをきつく求め、その代わり経済的リスクは男性が全面的に背負い、両者が負うリスクから回避できないように「離婚は恥ずべきこと」という社会規範で縛ってきたと言う流れがあると考えるのが自然であろう。
もっともその一方で男性は浮気をするものという、男性にとって都合のいい、女性にとって都合の悪い解釈を押し付けてきたことも事実であろう。
しかしこれは「女性に主体性を認めると生まれてきた子どもの男親が誰なのかが分からなくなるから」という男性が持つリスクを回避するための策である。よって、女性に貞淑であることを求める以上は男性も浮気をしてはならない、と言うことになる。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120505/wlf12050507000000-n2.htm
女性が欲求してきたり、男性の欲求を拒むこともありうる。女性の性的快感は非常に多彩で複雑だが、男性はわかりにくい女性の快感のしくみにつきあわなければならなくなる。うまくやれなければ男性は女性から非難され、傷ついて自信をなくす可能性もある。

ところが、女性の主体性を認めると言うことになると話が変わってくる。
「女性に主体性を認めると生まれてきた子どもの男親が誰なのかが分からなくなるから」という男性が持つリスクを受け入れるばかりでなく、女性自身や生まれてくる子に対して、より良い肉体とより良い経済力を提供してくれる男性を探し続けるため、男性をとっかえひっかえし続けるということが発生する。「女性は選択する性」「女性の恋愛は上書き保存」というのもこのためであろう。かくして、女性の売り手市場が出来上がることになる。理論上、有限の存在である女性は男性を選り好みをすればするほど、女性自らの価値を無限に吊り上げることができるのだからどれだけ選り好みしても「どこかにもっといい人がいるに違いない」と感じ、いつまでたっても満足できないのはこういうことだからだろう。

一方、有限の経済力しか持ち得ない男性はどうなるか。
「女性に主体性を認めると生まれてきた子どもの男親が誰なのかが分からなくなるから」というリスクを受け入れざるを得ないのに、社会のルール上「浮気は禁止」のままだからリスク回避が出来ない。
もっとも、それでも女性は種族繁栄のための最大の生産行動であり、最大のリスクでもある「出産」をすることに変わりはないのであるが。

男性が女性を獲得する制度の一つに一夫一婦制と言うものがある。
本来、一夫一婦制と言う制度は有限の存在である女性の価値をむやみに吊り上げることなく、男性にできるだけ等しく分配するための制度である。これにより女性の「暴騰」とそれに伴う男性同士の争いを未然に防ぐ役割がある。
ところが、昨今の男性の主張はどうか。少子化対策の議論になると必ず出てくる言葉がある。
「一夫多妻制にしたらどうか」「金持ちの男性がたくさんの女性と結婚して子どもを作って育てればよいのではないか」「貧乏な男の遺伝子より金持ちの遺伝子を残すべき」
という意見である。
これは男性を一人の人間としてではなく、経済力に応じて女性を割り当てるべき、という視点に立つ論であり、ある意味合理的である。
「子どもは社会全体で育てていくべきであり、母親一人にその役割を背負わせてはならない」
という声にも適合しやすい制度だろう。

こういった論議は「リスクを背負ってでも子どもを作って育てよう」という、生産や創造に付きまとうリスクを受け入れようという生産性のある視点から語っているのでまだ救いがあるのだ。

ところが、セックスレスは「リスクを背負う位なら子どもなんていらない」というような生産性のない視点から語っているから救いがない。もちろん、セックスは子作りのためだけではないのは百も承知だ。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120505/wlf12050507000000-n3.htm
他の先進国の多くでは性解放の後、男女は性的主体としてほとんど格闘のようにコミュニケーションを重ねている。自分の性的志向や相手に何を求めるか、語り合い確かめ合う。試行錯誤も多いが、充実した関係を求め続けている。日本では主体性が幸せなセックスを追求することでなく、拒むことにしか使われていないのは残念である。

自分の性的志向や相手に何を求めるか、語り合い確かめ合うことができない。相手の要求を聞き入れ、飲むことはリスクにつながるからだ。それがほんの些細なリスクであって、得られるリスクが多大なものになる可能性があるとしてもだ。
自分の性的志向を語ること。相手に求めたいこと。これを相手にさらすこと自体が男性にとってリスクなのだ。
なぜそうなるか。
女性が主体性を持った以上、女性には主体的にセックスを拒否することが出来るし、受け入れることもできるようになった。セックスと言う行為そのものの主導権を女性が握ったのだから当然である。

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120505/wlf12050507000000-n2.htm
うまくやれなければ男性は女性から非難され、傷ついて自信をなくす可能性もある。男性は射精すれば欲望はひとまず解消するが、女性は続けることができるので、男性はその欲望に応えきれなくなるかもしれない。このような状況を招かないために、男性たちは女性の性的な主体性を奪ってきたといえる。

結果、こうなった。やる前から分かっていた話だ。
セックスを受け入れるか拒否するかの主導権を女性が持っているにもかかわらず、女性が持つ欲望に応えられなかったら悪いのは男性だと言う判定を下される。主導権を握ると言うことは、相手の弱さや不備も受け入れることが必要なのだが、出産と言う最大のリスクを伴う「選択する性」たる女性はリスクを徹底的に回避するのは当然のことなのである。
男性からは「だったら女性から誘え」という声が出てくるのも当然の結果なのだが、せっかく握った主導権を女性が手放すはずがない。主導権を手放すリスクを負うぐらいならセックスなんてしなくて良い、と言うことになるのが女性の判断なのだ。
セックスレスを解消したかったら、主導権は男性に戻すしかないのである。出産と言う最大のリスクを伴わない男性のほうがリスクを背負いやすいのだから。