労働時間無制限一本勝負の成果主義はデスマッチと同じ

「成果給<ダラダラ働く人の残業代」の現実

http://toyokeizai.net/articles/-/45698

給料が上がるいちばんの近道は“成果”を上げること。成果を上げれば、高い『人事評価』を獲得することができるので、翌年の昇給が大きい可能性が大。

これは長期的に見れば嘘。
1年という短期的なスパンで見れば「翌年は昇給」するだろう。しかし、毎年昇給するとは言ってない。毎年成果を上げ続けなければ毎年昇給しない。

ちなみに会社の人事評価とは

S:期待を大幅に超える成果
A:期待を超える成果
B:標準的な成果
C:期待を下回る成果 
D:期待を大幅に下回る成果

などと5段階にわけ、上位のSないしAの評価がついた社員は給料が大きく上がる仕組みになっている会社が多いようです。

これもかなり甘いと言わざるをえない。
現実は、上位のSなら昇給、Aなら現状維持、BCはダウン、Dは2回続いたらリストラ対象、という感じだろう。
なぜなら、

表の意図:頑張った人を報いる
裏の意図:総人件費の抑制

兎にも角にも総人件費を抑制しなければならない。経営側にとっての成果とは「人件費をいかに抑制したか」というところが評価ポイントになるからである。総人件費が減るというのは「市場のパイが小さくなる」のと同じであり、負ける人のほうが多いマイナスサムゲームということである。
極端な言い方をすれば、競馬やパチンコで収入を増やし続けろと言ってるのと同じことだ。勝ち負けが50:50ではない競馬やパチンコは長期的には必ず負けることになっている。

「B評価は全体の30%まで。S評価とD評価を全体で5%以上にすること」

こういう評価を続けると、従業員はどういう行動を取るか考えてみる。
ここで挙げられている評価制度はかなり楽観的な評価制度とは思うが、S評価とD評価を5%、B評価を30%の従業員に割り振ることを条件とした場合、総人件費を下げるという成果も挙げなければならないので、必然的にA評価よりC評価になる従業員を多くしなければならない。
負けがこんでくる従業員の方が多いので給料は下がっていき、辞めていく従業員も出てくるだろうし、D評価にされて首になる従業員も出てくるだろう。
すると、今まではB評価で凌いできた人たちがCやDの評価を受けるようになりまた辞めていくことになる。
辞めていった従業員の分は新卒や中途採用で補ったり、派遣などを使っていくことになるだろう。しかし、このシステムを何年も続けていくと精鋭だけが残るようになるので、新卒や中途で入った人はなかなか高評価を得にくくなるだろう。
残された精鋭たちというのは、理念集に「24時間365日死ぬまで働け」と載せることに何の疑問も感じなかったり、「自分も月500時間働いてきた」と何の疑いもなく自慢してしまうような人たちのことだ。こういった精鋭たちの下で働いていた人たちがどうなったかは言うまでもないだろう。
逆に、こんな勝ち残り戦を強いられるような会社には居たくない、と優秀な従業員が自主的にどんどん辞めていく可能性もある。そうなった場合、残されたボンクラ従業員ですらS評価をつけることになりかねない。
結果として、総人件費のパイを小さくした分だけ、人材のパイも小さくなる。経営側だけおいしいところを持っていけるわけではないのだ。

景気が回復して全体的に残業時間が増えてくると、会社は一般社員に対して残業を容認するようになり

「残業して稼ぐのがいちばん近道。だから残業は積極的に」

という社員が出てきたりします。そんなタイミングに成果を出しており、残業が少ない社員をどのように評価するか? 会社にとっては大きな問題ではないでしょうか。

従業員が「稼ぎが減ったから残業代で穴埋めしよう」と考えるのと「残業は人件費増大の元」と考える経営側は基本的に同レベルと考えていいだろう。
制限時間無制限一本勝負で勝つまで働け、負けた方は死あるのみ、という発想を捨てない限り、成果主義と残業代の矛盾は解決しない。もう一つ言えば、成果というものを「短時間で成果を出しました」という相対的な時間軸で評価している限り、残業代を減らすことはできないということだ。
「予定の時間内に成果を出しました」でよしとする絶対的な時間軸で評価をしないと、どうせいつかは負ける日が来る、だったら勝ちはなくても負けないようにしよう、と思ってしまうだろう。
営業のノルマ主義はまさにこの典型例だ。ノルマは下方硬直性が強いのでいつかは負ける日が来る。勝ち負けの評価が50:50ではないので、従業員は勝つことより負けないことを優先してしまうのは当然の結果である。

・残業している姿を称えない風土を醸成する
・社員別残業時間を管理職同士で共有する
・残業時間と業績を連動した人事評価を行う

こんな面倒くさい、成果が上がるかどうかわからない努力をしてどうするのか。
答えは一つ。
制限時間無制限一本勝負をやめて、制限時間を設けること。時間切れで成果が出なかった場合は、計画が甘かった経営側の責任ということにすればいいのだ。
1日8時間、1週40時間という制限時間の中で成果主義を取り入れれば、残業の心配がないから人件費が予想以上に膨れることもないし、制限時間内で大きな成果を出した人から順番に高い評価をすればいい。
ワークライフバランスやら子育てやら少子化やら介護やら、これからますます現役世代は仕事以外の時間が必要になる。そういった社会情勢を踏まえて働く環境を作っていかないと、成果主義という競争環境の維持すら困難になるだろう。

若い女性は田舎で生贄を育てて東京様に差し出せ→若い女性「私も生贄がほしいから東京に行く」

「極点社会」人口減少の現実

http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2014_0502.html
全体の5割に上る896の市町村で、子どもを産む中心的な世代である20代から30代の若年女性の数が、2040年には半分以下になるというのです。
(中略)
都道府県別にみると、北海道・青森・岩手・秋田・山形・和歌山・島根・徳島・鹿児島などで、若年女性の数が半分以下になる市町村の割合が高く、最も高い秋田県は、25ある市町村のうち24に上っています。

「若い女性」と「子供を産む」を結びつけるのはそれほど不自然なことではない。
しかし、「若い女性」と「都道府県」をなぜ結びつけるのか。
確かに地方で若い女性が減ることは事実であろう。しかし、海外に移住でもしない限り、日本国内における若い女性の総人口は変わらないはずだ。どこに住んでいても子供を産むことは可能なはずである。ところが…

若年女性が向かう東京は、全国で最も子どもを産み育てにくい都市です。

まずここを何とかしろ、と言いたい。
大都市・東京様たるもの、子供を産み育てにくくて当然である。東京様はお金を稼ぐための仕事で忙しいのだ、子育てや介護なぞしている暇はない、とでも言いたげな姿勢である。
この姿勢は裏を返すと、子供を産み育てるのは地方の役目である、と暗に言っているのだ。
事実、老人を都内から北関東などの近県に移して介護するというケースが散見される。コストが安いから、というのがその理由らしいが地方に対して失礼千万である。賃金格差を利用して地方を奴隷扱いしたいという願望が現れている。

婚率は全国で最も高く、出生率は全国で最も低くなっています。
その背景には、借家の平均家賃が全国で最も高いことや、保育所の待機児童の数が最も多いことなどがあります。

果たしして原因はそれだけであろうか。むしろ家賃や保育所は結果論ではないだろうか。

私たちは、多くの地方で、若年女性の雇用の大きな受け皿になっている、医療・介護分野の事業者の動向に注目しました。

根本的な原因はここにあるのではないだろうか。
地方で若い女性が働く場といえば医療介護の分野。
しかし、医療介護の分野は全国的に人手不足である。医療介護の人材が足りなくなった現場ではますます過酷な労働を強いられるようになり、退職者がますます増えるという悪循環に陥る。つまるところ、絶対的な数が必要なのだ。数が必要ということになれば、自ずと大都市が有利になる。かくして、医療介護の人材は大都市へと移動することが容易に予想できるのである。

首都圏だけでは、十分な人材の確保が難しくなりつつあるとして、地元を中心に地方のリクルート活動に力を入れ始めていました。
健祥会」は、今年度に入って、人材確保のために新たな部署を立ち上げ、全国各地を回って人材を集める準備を進めています。

予想通りである。賃金の高さや人材の豊富さ、職場環境の良さは大雑把に言って人口に比例する。人材獲得合戦において地方は大都市に勝てないのである。

そもそも、若い女性みんなが医療介護職に就きたいわけではない。他の仕事をしたい人だってたくさんいるはずである。ところが、それが地方で可能なのであろうか、という疑問がわく。往々にして、地方での仕事は農林水産業のような一次産業、もしくは工場のような二次産業が主体であり、女性が就きたいと思うような三次産業の仕事が圧倒的に少ないのである。
それ故、

私たちは、多くの地方で、若年女性の雇用の大きな受け皿になっている、医療・介護分野の事業者の動向に注目しました。

こういうことになるのだ。
これでまず、医療介護以外の仕事をしたい若い女性はみんな大都市に出てくることになるのだ。果たしてこの流れを止められるだろうか。この流れを止めるということはすなわち「若い女性は田舎で医療福祉でもやってろ」ということに等しい。

かつて男女の性別役割分担を強いるのはよくない、ということで男女平等を唱えるようになった。
今度は性別に加え、大都市と地方という「地域別役割分担」を強いるようになってきた、ということなのだ。

「女性というだけでやりたい仕事もできない」というと「それはおかしい」とすぐにピンとくるのに、「地方に住んでいるというだけでやりたい仕事もできない」というのは正しいことなのだろうか。大都市に引っ越せばできる、というのならまだいいだろう。しかし、番組では最後にこう結んでいる。

人口移動の流れを変えるには、さまざまな分野にわたる対策が必要です。

「人口移動の流れを変える」と言ってるが、もっとはっきり言えば、若い女性を田舎に縛っておくにはどうしたらいいか、と言ってるのだ。
これはどういうことか。

若年女性が向かう東京は、全国で最も子どもを産み育てにくい都市です。

東京は子供を産み育てにくい。これは既定路線であり、変更する議論の余地はない。だから若い女性には、東京に出てこないで地方で子供を産み育てて欲しい、と言っているのだ。
これが冒頭で疑問を感じた、「若い女性」と「都道府県」をなぜ結びつけるのか、という疑問に対する答えである。
東京に住んでるオヤジ達のために、若い女性は地方に住んで子供を育てて、医療福祉職で働き、面倒を見て欲しいって言ってるのだ。なんと図々しい態度だろうか。

若い女性は地方に住んでいたらそういう目に合わされるとすでに見切っている。だからこそババを引かされないように、いち早く大都市に避難してくるのだ。地方に縛られて子育て要員や介護要員にされたんじゃたまったもんじゃない、自分には自分の人生がある、と思っているのだ。

「やりがい」「人生の質」は人それぞれである。しかし、金銭や時間、肉体的な負担は共通である。子育ては金銭的にもきつくなるし、時間も体力も奪われる。また介護職の人が安すぎる賃金と先の見えない介護にやる気を失っている、というニュースは枚挙に暇がない。これを地方に押し付けようとしているのだ。
究極的には「子育ては儲かるか」という話になるのだが、儲からないから東京様は子供を作らないし、東京様は保育所を作りたがらない。子供を作れば作るほど儲かるというのならみんなこぞって子供を作るはずである。子供一人育てるのに、20年の時間と体力、3000万円とも言われるお金が必要なのだ。実はここを地方が担っているのだが、この番組はあくまで大都市・東京様の上から目線。

いずれは大都市圏も、地方から来る若者が減って高齢者ばかりになる

大都市・東京様が高齢者ばかりになって今までの勝ちパターンが維持できなくなる、地方と若い女性はいますぐ何とかしろ、もっと若者を生贄に差し出せ、と東京様はおっしゃっているのだ。
しかし、もう若い女性は東京様の言うことを聞かなくなってしまった。それどころか、自分も生贄を受け取る東京様の仲間に入れてほしいと殺到しているのだ。
こういう流れになるのは当然の結果である。若い女性だって勝ち組に入りたい。その前提条件が「東京に住む」ということに変わってきたのだから。

東京未婚者取引所を開設しませんか

婚活業界の”不都合な真実”なぜ婚活の成功率はこんなに低いのか

http://toyokeizai.net/articles/-/28007?page=3
とはいえ、成婚率10%はあまりに低調すぎます。その原因は何でしょうか。私は、「恋愛感情を醸成する仕掛けがない」ことに尽きると思います。現代ニッポンにおいては恋愛結婚が主流です。相手を好きになって結婚するのです。

そうした中、結婚相談所のスキームの根幹はプロフィールデータの交換です。データは無味乾燥な属性情報の羅列と若干のPR文。そこから、読み取れるのは人となりのごくわずか。また、お見合いが成立しても定番の「指定されたホテルのロビーで会話。時間厳守(60分)。連絡先の交換は厳禁」。

これで相手を好きになれって言われてもねぇ……、大半の人にとっては難しいでしょう。現行のスキームを抜本的に変えないかぎり、成婚率が増大することはないし、料金の訴求力も低空飛行を続けるのは必至の情勢だと思います。

じゃあ、現行のスキームを抜本的に変えたお見合いサービスにすればいいんじゃね?
恋愛結婚じゃなければ結婚じゃない、お見合い結婚なんて戦前の負の遺産、とばかりにカリカリしてもしょうがない。成婚率が上がらないのは、恋愛に決定的に向いていない人がそれだけ多いという表れであろう。恋愛は下手くそでも家庭生活を営むのは上手な人は少なくないと思われる。いや、むしろ恋愛ベタな人のほうが誠実に家庭生活を営んでいけるのではないだろうか。もっとも、女性の場合、一度は恋愛というものをしてみたい、なんて思う人は少なくないだろう。が、しかしだ。結婚相談所を使用する時点でこのへんは諦めたほうがいいんじゃないだろうか。

そして、この結婚相談所のシステム。プロフデータを見て恋に落ちろというのはなかなか難しい。生身の人間を見てダメだった人がデータで恋に落ちるだろうか。たぶん無理だろう。

と、いうことは、恋愛感情を挟まず、「新規家庭生活開始のためのパートナー募集のお知らせ」という形で結婚相手を募ったらどうだろうか。
仕事仲間を探すのだって誰でもいいというわけではなく、必要なスキルや資金、やる気や誠意など、それぞれ独自の価値観があるだろうから、その流れで結婚相手を探すサービスを作ってみてはどうだろうか。

結婚相談所の会員のほうが一般の未婚者に比べて、「年齢」「年収」「学歴」など相手に求める条件がはるかにキツくなるという実態が明らかになりました。

どうせこういう無茶な条件を並べて「いい人がいない」と嘆く人(多くは女性の方ではないかと思うが)が多いのだから、恋愛なんて言うオブラートなんかに包むのはやめて、正々堂々と必要条件を提示してはどうだろうか。
さらに「年齢」「年収」「学歴」の平均値や中央値をホームページ上でリアルタイムに表示すれば「相場」や「気配」というものが分かり、無茶ぶりをする人は少なくなるだろう。
いっその事、株の売買のように取引が成立したカップルに「お見合い権」を付与すればいいだろう。売買成立という「出来高」こそがこの新しいスキームでの結婚相談所の価値を示すとすれば、そのほうが健全ではないだろうか。結婚相談所は出来高に応じて手数料を貰えばよい。

私は、冒頭の“婚活中の草食系男子(推定年齢35)”に対して、結婚相談所の成婚率を告げると共に、次のアドバイスをするでしょう。「もし、相手に対する条件を上げるなら、自分自身の魅力も上げるべきだよ」と。

「相手に対する条件を上げるなら、自分自身の魅力も上げるべき」ともっともらしいことを書いているわけですが、これが正しいのなら、女子力をギンギンに磨きまくっている女性は早々に売れているはずです。

ここで間違えやすいのは「相手」は不特定多数なのに対して、上げる魅力は「自分自身」ということ。
つまり、自分は売り手である、という発想から抜け出さないと、自分を高く売りたいだけという話になってしまい、取引が成立しない。
草食系男子に必要なのは、買い手に回ること。好みの女性が買えるような力を身につける方が大事なのでは?

「給料定額制で時間無制限」と「自由な労働時間」は矛盾する

残業代払わない「ホワイトカラーエグゼンプション」 新年から再度議論始まる見通し

http://www.j-cast.com/2014/01/01192664.html?p=all
この規制を緩和して、深夜や休日にどれだけ働いても割増賃金を払わないことを認めようというのだ。交代制などで働く工場現場の労働者などにはなじまない制度だが、一定の裁量で労働時間を自らコントロールしうるホワイトカラーを対象に、時間外の賃金割増など法律の条文の適用除外(エグゼンプション)にすることから、「ホワイトカラー・エグゼンプション」と呼ばれる。現在でも、働いた時間によらず、決められた給与を出す「裁量労働制」があるが、手続きが複雑なので、もっと使いやすい制度をめざす。

またやるのか…
経営層は何が何でも賃金を出したくないらしい。

で、こういう言葉の言い換えはもうやめてほしい。
×「手続きが複雑なので、もっと使いやすい制度」
○「オブションじゃなくて標準で適用できる制度」
でしょ?

「ホワイトカラーは働き方に裁量性が高く、労働時間の長さと成果が必ずしも比例しない」(経済団体関係者)という認識があり、労働時間に対して賃金を支払うのではなく、成果に対して払う仕組みが必要というわけだ。

ここでも言葉の言い換えがあるので直したい。
×「認識」
○「願望」
だろう。

裁量性が高いホワイトカラーなんて役員クラス以上の人だけだろう。
中間管理職たる部課長クラスですら出勤時間の裁量もないに等しいのに、それ以下の労働者層に働き方の裁量なんて皆無である。
労働時間の長さと成果を問うのであれば、勤務時間とお金(予算)に対して裁量性を持つ人のみを対象にすべきであって、上司にハンコをもらわないと有休も予算ももらえないような人を「働き方に裁量性が高い」と呼ぶのは間違いである。

そして、大きな成果を出すには時間も人もお金もかかる。短時間で少ない投資で大きなリターンなんて、今どき詐欺師でさえそんな言葉は使わない。ローリスクハイリターンで美味しい経営がしたいです、ってはっきり言えば可愛いのに、いかにも労働者のための法律改正です、っていう顔をするから憎たらしく見えるのだ。

今回、推進側は批判を意識して、働き手にもメリットがあると強調する。労働者は仕事の繁閑に応じて働く時間を自由に設定でき、また、長時間働いても残業代が出ないので仕事を早く切り上げようという動機づけになり、残業が減るというのだ。

もう一度言おう。

上司にハンコをもらわないと有休も予算ももらえないような人を「働き方に裁量性が高い」と呼ぶのは間違いである。

労働者に仕事の「繁」はあっても「閑」は無い。

以前社会問題になった「偽装請負問題」を見れば、カネをもらう側に裁量なんて生まれる余地がないことは明白なのだ。

請負採用企業の6割で「偽装」の疑い 連合の調査

http://www.asahi.com/special/060801/TKY200612170201.html
正規従業員と請負労働者が、同じ業務ラインや作業チームで混在して働く職場があるかを聞いたところ、「かなりある」が15.2%、「一部である」が45.1%だった。混在して働くのは、通常は適正な請負とは見なされない。

企業単位で仕事を請け負ってこの程度。
お金があればこその裁量。お金がない労働者に裁量なんて無いのだ。
お金があるから元請けは仕事を下請けに出して、仕事の「繁閑」を作ることも可能になる。
お金をもらう側の労働者個人が「仕事の繁閑に応じて働く時間を自由に設定」「残業代が出ないので仕事を早く切り上げよう」なんていう働き方ができるわけがないのだ。
結果として、元請けの指示通りに仕事をせざるを得なくなる。そこに裁量なんて生まれる余地はないのだ。

http://www.j-cast.com/2014/01/01192664.html?p=all
具体的な制度設計では、労働側の懸念に配慮して、年収1000万円を超える専門職に限る、あるいは条件を予め決めて働く側が希望した場合に限る、などの条件をつけるほか、健康を害するような事態を招かないよう、休日・休暇を強制的に取らせたり年間の労働時間に上限を設ける、といった案もでている。

これではダメだろう。
お金と時間に裁量がある人に限らなければならないのだから、「年収1000万円を超える専門職」という縛りだけでは足りない。この条件に則るならさらに「労働期間が3ヶ月以内で報酬が1000万円を超える専門職」でなければならない。単純に年収1000万円で縛っても、どう逆立ちしても決められた期間内や予算内では仕事が終わらない(成果を出せない)ような仕事を任せられたのでは裁量の余地はない。
「自分でやるより誰かに頼んだほうがもっといい仕事をしてくれるであろう」というタイプの仕事でなければ意味が無いのだが、方向性としてはどうしても「自分でやるより誰かに頼んだほうが安く仕事をしてくれるであろう」というタイプの仕事に適用したいという思いが透けて見えるから反対論が大きくなるのだ。
ホワイトカラーエグゼンプション」が「(給料)定額制で(労働者)使い放題」と言われてきたのはこのためである。

裁量性が高いのであれば「休日・休暇を強制的に取らせたり年間の労働時間に上限を設ける」なんてことを心配する必要はないはずである。ところが、こういう案が出てくる事自体、休日がとれなくなったり過剰な労働時間になることが容易に想像がついているということの証であり、裁量性のない人にも適用したいという狙いがあることの証でもある。

しっかり守られていると言われている正規雇用者ですら「休日・休暇を強制的に取らせたり年間の労働時間に上限を設ける」が守られず「36協定」という抜け道を利用され、「過労死」「サービス残業」「ブラック企業」が社会問題になり、有休の取得日数がOECD加盟国中最低という状況の中で、個人請負に近くなるホワイトカラーエグゼンプション制度で労働環境がこれより良くなるとは到底思えないのである。

地元志向とは「あるあるネタ」志向である

地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会 [著]阿部真大 - 大澤真幸(社会学者) - 本の達人 | BOOK.asahi.com朝日新聞社の書評サイト

http://book.asahi.com/ebook/master/2013120500005.html
「地元と聞いて思い出すものは何ですか?」というアンケートをとったときに返ってくる答えは、「イオン」「ミスドミスタードーナツ)」「マック」「ロイホロイヤルホスト)」などである。この答えは驚きである。なぜなら、これらのものに、地元的な固有性はいささかもないからである。

インターネットを使ったコミュニケーションを使いこなす若者が大事にするのは共通体験である。
従って「地元と聞いて思い出すものは何ですか?」という問いに「近所の○○商店」とか「地元名物の○○まんじゅう」では仲間同士の共通体験になりえず、さらにSNSで知り合った見たこともない仲間との共通体験にもなりえない。

双方の仲間を満たす共通体験はイオンでありミスドでありマックでありロイホなのだ。これら商業施設は全国津々浦々に存在することが肝なのだ。

例えばハンバーガーを買って食べるという行為をしても、地元の喫茶店で売っているとても美味しいご当地バーガーを食べても、その体験を共有してくれる人は少ない。少々味は落ちても、マクドナルドのハンバーガーでなければダメなのだ。

例えばコカ・コーラを買って飲むという行為も、近所の自販機で買って飲んだり、地元の大型スーパーで買って飲んでも、その体験を共有してくれる人少ない。売ってるものが全く同じであっても、イオンやセブンイレブンで買って飲むからその共通体験を共有してくれる人がたくさん生まれ、若者は幸せを感じるのだ。

そして、この共通体験をもっとも共有しやすい都市こそ、地方都市なのだ。

東京ではもっと美味しい一流シェフが作ったハンバーガーがあったり、見たこともない変わり種のハンバーガーがあったりと、マクドナルドを超越したハンバーガーを出すお店がたくさんあって、話題作りの先頭を走れる状態にある人がたくさんいるのだ。

ところが、地方では話題の先頭を走ることは難しい。
と、なれば、先頭を走ることは無理でも、大多数の平均値、ど真ん中に居ることで「あるある」話に花を咲かせられる共通体験の多さというポジションに居ることが可能となる。

彼らは、地域の人間関係に対して、ことのほか背を向けている、ということになる。地域の共同性が好きでもないのに、わざわざ地方にとどまっているのだ

このことからも分かるように、若者は地域の土着性を気に入って地方に住んでいるわけではない。
田舎にいながら、最低限の都会的な話題についていけるポジションがいいのであって、地元民との濃密でローカルな話題に混ざりたいとは思っていないのだ。つまり、地方に住んでいながら、話題の種は「全国区」の話がしたいのである。
逆に言えば、若者に海外志向がないのも同じ理屈である。海外にイオンやミスドやマックやロイホが日本並みに出店していれば共通体験には事欠かないが、そんな外国は殆ど無いだろう。

この感覚は東京に住む人には案外わかりにくいのかもしれない。
東京に住む人にわかるように例えるなら、Amazonが「東京には配達しません」と言ったらどう感じるだろうかを考えてもらうと分かるかもしれない。
地方の若者は大なり小なりこういう疎外感を味わっているのだ。

地方都市は、余暇の楽しみのための場所がない田舎と刺激が強すぎる大都市との中間にある「ほどほどパラダイス」になっている、というのが、本書の前半の「現代篇」の最も重要な主張である。

田舎過ぎるとイオンもミスドもマックもロイホも存在しなくなる。これでは「あるある」話についていくことすらできず、非常に惨めな思いをすることになる。

彼は、東京とか日本とかといった領域が意味をもたないような、グローバルで普遍的な空間(大洋)を移動する。しかし、その自由な移動のためには、地元を超える地元に根を張る夏が必要だ。こうした両極の短絡的な結びつきは、どのようにして可能になるのか。

あまちゃんの例はちょっと極端にしても、インターネットで話題になることをふんわりと眺めてみれば分かるのではないだろうか。
ニコニコ動画にコメントをつけると楽しいのは擬似的に同時に他人と動画を視聴している気分が味わえるからであり、オンラインゲームで外国人とパーティを組んで遊べる時代であり、iPhoneを手に入れて、世界共通のアプリを動かす体験をすることができる時代だからである。
これ全て、鍵は共通体験の共有にある。

しかし、共通体験を共有するだけなら東京でもいいのではないだろうか?

もちろん東京でも共通体験は可能だ。むしろ人口が多い分チャンスも多いだろう。しかし、東京は忙しすぎるのだ。
生活にお金がかかりすぎたり、仕事や通勤時間が長すぎて共通体験をする時間がないのだ。それどころか、ブラック企業に勤めようものなら、共通体験どころか、まともな生活が送れない可能性が出てくる。
それに比べれば、地方は生活にかかるお金もそれほど必要ないし、通勤時間も短いから自由な時間が持てる。
これはいわゆる「ワークライフバランス」に通じるものがあると言って良いだろう。

田舎すぎない地方というのは、田舎と都会の両方のいいとこ取りができるのだ。東京のような大都市で最先端を行く尖ったポジションにいたいというのであれば、それは地方ではかなわないだろう。

尖ったポジションを獲得するための生活、忙しすぎて自分の時間が持てない生活。それが東京で生活することの犠牲になるポイント…すなわち、イオンにもミスドにもマックにもロイホにも行けなくなる生活では、それは田舎暮らしをしているのと同じことなのだ。

リスク回避すらさせないのがブラック企業

ワタミユニクロ…短絡的なブラック企業批判が問題を延命?社員や客が加担も

http://biz-journal.jp/2013/11/post_3362.html
 ワタミユニクロ労働環境面では確かにブラックだが、同じレベルのブラック度合の会社ならほかにも多数存在している。なのに、なぜこの2社ばかりが叩かれるのだろうか。

 それは、「経営者が目立つ」「儲かっている」「みんなが叩いてる」など、なんとなく同調しやすい空気があるからではなかろうか。

これはあくまでカウンターとして叩いているのではないだろうか。ワタミユニクロのようなBtoCの企業は一般消費者と直接触れ合うがゆえ、営業時間から扱う商品、価格、客の入り、従業員の接客態度までよく目立つ。ある意味、消費者が経営者目線や株主目線で企業を評価しやすいからだろう。
一方、「経営者が目立つ」のでマスコミ受けがいいし、勢いがある企業ということでマスコミが持て囃す。その裏付けとして「儲かっている」からその経営方法は正しく、経営者も褒められる存在であり、模範とすべき人である、という扱いをされる。
さらに、従業員として働く立場になる人の多さがあげられよう。ワタミユニクロのような企業はアルバイトやパートを多用する。つまり、短期雇用が多いので、必然的に「元従業員」が大量に発生する。すると「元従業員」という内部で働いたことしかわからない経験談などがネット上などで暴露され、マスコミで報じられるような輝かしい企業経営の影の部分、すなわち「ブラック」な部分が明るみになると「商品の魅力や価格に見合った商品で勝ち取った栄光ではなく、多数の従業員の犠牲で勝ち取った栄光」という企業経営の仕組みが見えてくる。
根底に流れているのは「マスコミは都合の悪いことは報道しない」「都合の悪い情報はネットにある」という考え方である。
マスコミは広告主というスポンサーの上に成り立つ商売である以上、スポンサーを叩く報道はしないだろう、と考えるのは自然に事であろう。
一方、ネットは個人の発言が自由であり、個人がお金を払ってネットに情報を発信していることが多いため、言論の自由に収まる範囲であれば基本的には誰を叩いても文句を言われる筋合いはない。もっとも個人が発信する情報の真偽は定かではないのだが、「元従業員」と名乗る人が、いかにも内部の人しか知らないような情報を流せば、その情報は確からしい、真実っぽいという評価を受けることになる。
「金を出した人が口を出す」という意味ではどちらも同じであるが、これが両メディアの特性の違いである。

この両メディアが伝える情報のギャップが「なぜこの2社ばかりが叩かれるのだろうか」に対する答えだ。ワタミユニクロを叩いているのはその通りだが、その影には、ワタミユニクロを持ち上げるマスコミも叩いているのである。高給取りで知られるマスコミが「庶民ヅラ」してワタミユニクロを持ち上げ、ひどい目にあっている従業員の影の部分を報道しないから叩くのである。

もうひとつ考えられるのは「儲かっている」という点である。
ブラック企業だろうがなんだろうが、儲からなければ存続はできない。いつか淘汰されるのだ。それなら叩く必要はない、という判断になるものと思われる。

解雇には厳しく向き合う一方で、異動、転勤、転籍、出向など、会社が社員に対して広範な権限を振るうことについては黙認してきている。産業構造も社会情勢も変化した今、抜本的に見直すタイミングが来たと考えていいだろう。まずは解雇の金銭解決あたりから検討してはいかがだろうか。

企業と従業員のそれぞれが負うリスクと耐えられるリスクを勘案すると「解雇の金銭解決」は企業側に有利すぎるだろう。
今支払っている給料の10年分を払います、というぐらいの金銭なら、企業側が負うリスクとしては十分高いものであり、従業員側にしても負うべきリスクに見合った金銭だろうけど、ここまで気前のいい企業はないだろう。よくても給料の数カ月分を払うだけにとどまることは容易に想像ができる。
従業員が負う最も厳しいリスクが「無収入になること」なのだ。解雇には厳しいけど異動や転勤には緩いというのは、従業員の収入が途絶えないから、嫌々ながらも社会に広く受け入れられているのだ。
この現実を考えてみると金銭解決では企業側に都合が良すぎるだろう。解雇の条件として従業員側が受け入れられるのは収入が途絶えることのない「新しい転職先を確保した上での解雇」だろう。片道切符と言われる転籍や出向にそれほど社会的な批判が集まらないのもこうした理由があるからである。
そもそも、その無収入になることへの備えとして失業保険があるわけで、収入が途絶えることに対するリスクの高さは国レベルで支えなければならない程のものなのだ。1ヶ月や2ヶ月で新しい就職先が決まる人はいいかもしれないが、そう簡単に新しい職場が見つかるような世情ではない。中高年の再就職であれば年単位の時間がかかるだろう。
これを受け入れてなお多くの従業員は賃金が低下する。そのリスクはどうしても従業員が負わざるをえない。

その辺の落とし所を上手いこと突いてきた企業の一つがソニーである。

「転職支援」で使い捨て 正社員切り 成長産業に

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013110702000109.html
 ソニーの広報担当者はキャリアデザイン推進部について「次の職場にスムーズに就いていただくための調整部署。社外転身を希望する社員にはその支援も実施している」と説明する。リストラ研修については「そのような事実はない」と否定した。

 人材サービス会社が、企業から正社員のリストラを受託する「再就職支援業」は、二〇〇八年のリーマン・ショック後拡大。解雇の実情に詳しい東京管理職ユニオン鈴木剛書記長によると「一人辞めさせると数十万円という料金設定で、人材会社の収益の柱になっている」という。

企業からすれば「再就職先を探してリストラ社員にあてがう」なんて手間隙かかることはやっていられない、もっと機動的に人を雇ったりクビにしたい、というのが本音だろう。だから金銭解決にこだわるのだろう。裏を返せば「転職活動」や「再就職」がソニーのような大企業の力を持ってしても如何に大変なものかということを現しているのだ。

http://biz-journal.jp/2013/11/post_3362.html
イヤなら辞めたらいい。職業選択の自由があるのだから。

そうは言っても、これがなかなかできない。
ブラック企業勤務ならなおさらだ。仕事をしながら転職活動をする時間もないだろうし、仕事をやめてから就職活動する金銭的余裕もないだろう。なぜなら、低賃金で長時間働かされるのがブラック企業だからだ。
ブラック企業ブラック企業と呼ばれるのは従業員の立場として最も弱い部分をである「余裕のない収入」「余裕のない時間」を突いて間接的に行動を制限するからなのだ。早い話、企業に歯向かうリソースを従業員に与えないことが企業経営のコツになっているのだ。
従業員に会社の近くに住むよう強制され、呼び出しがあればすぐに駆けつけられるように「間接的に行動を制限する」企業があったり、全従業員に社員寮に住むことを強制し、家族や友人との会話機会を減らすことで「間接的に行動を制限する」企業が叩かれるのもこういう理由があるからなのだ。

確かに「ブラック企業」というバズワードの威力はものすごく、それがあるだけで雑誌の売上やネット記事のPVはある程度上振れするレベルなわけだが、逆に言えば「便利な一方で、本当の問題の所在があいまいになる言葉」だともいえる。

と、いうわけで、本当の問題はブラック企業の存在が「無収入になるリスクに耐えられなくなる」事と「そのリスクを回避するための行動を間接的に制限されてしまう」事にある。

男性が「面倒、無関心、嫌悪」だと思うのは、女性のご都合主義が過ぎるからだ

特集ワイド:カノジョは面倒?「草食男子」ここまで 「セックスに無関心、嫌悪」25% 「性体験なくても平気」

http://mainichi.jp/feature/news/20131010dde012040013000c3.html
問題は、男性ホルモンが一番多く分泌されているはずの20代男性がセックスに関心が向かなくなり、敵視する人まで現れていることだ」と指摘する。セックス以外の異性との関わりを「面倒」「嫌悪している」とした人も20〜24歳で27・7%、25〜29歳で29・4%と上下の年代に比べて高い。

男性が持つ性欲は汚らわしい、忌避すべき、嫌悪すべき、他に興味をそむけるべき、興味をもつべからず、と大人がさんざん仕向けてきた結果なのに、何をいまさら嘆くのだろう。こういう指導してきた大人たちは念願がかなった、理想の青少年に育った、と喜ぶべきだ。

特定の女性に対してだけ欲情しなさい、それ以外の女性を見ても一切欲情するな、不特定の女性を見ても欲情するな、と女性に都合のいい男性の性欲を期待しておいて、いざその通りなったら困ると言われても、本当に困るのは草食男子の方である。こんなことを多感な時期にさんざん浴びせられ続ければ、セックスに無関心になったり嫌悪したり、セックスしなくても平気と言ってしまう精神になるのは当然のことだろう。

コラムニストの北原みのりさん(42)は、20代の男性たちに「性欲はあるのにロリコン化が進んだ。性欲もあり、言いたいことを言う大人の女性と向き合う体力、知性がなくなってしまった」と手厳しい。

これは違う。
「言いたいことを言う大人の女性と向き合う体力、知性がなくなってしまった」のではない。
「女性と向き合っていいかどうかは女性が決める、男性にその権利はない。」「女性に対して能動的に向き合うな」「女性に合わせろ、男性は女性に従え」
と言われてきたからそれに従っただけ。

たまたま今女性は逆の事を言ってるだけ。
「積極的に女性と関われ」「女性に気に入られろ」
という命令を出しているだけ。

男性の性欲という自主性をがんじがらめに縛っていることに変わりはないのだ。
その縛りが男性ホルモンの力を凌駕したのだ。

「人と関わることで人生が楽しくなることや打てば響く会話のおもしろさを幼い頃から教えていかなければ、本当に滅亡してしまう」

ここでも無意識に「打つのは男性」「響くのは女性」だと思ってはいないだろうか。
日本が滅ぶのは男性が消極的なせいであって、女性は何も悪く無いと思ってはいないだろうか。

積極性の根幹たる男性の性欲を女性の都合のいいように使いたい、解釈したいと考え、男性の自主性を奪う行動をした時からすでにおかしくなってきているのだ。
男性に「今すぐ勃起しろ」と叫んだ時だけ勃起することを期待している女性に男性は「面倒、無関心、嫌悪」しているのだ。